まえがき

 1    出会い
 
 信じるということは愛するということだ
 信じていないということは
 愛していないという事だ
 では どうしたら信じてもらえる?
 愛してもらえる?
 それともそんな望みを持つ事は
 不遜な考えなのだろうか?

 とにかくぼくは空腹だった。まともな飯にありつけたのはいつだっただろう? 昨日などパンのかけらが落ちているのを見つけ口にしたら、たちまちもっともっとと胃が傲慢な主張を始め、拾い食いなどしなければよかったと後悔し、今日はその教訓からただひたすらじっとして飢えに耐えている。
 じっとしていると、確かに空腹の意識が少し緩和される。そして目を閉じ、耳も一切の喧騒から離れ、ただ一心に祈る。
 かれが来る事を祈る。
 かれのことはヒリポから聞いた。たくさんの人間が彼を待ち望んでいるのだ。ここにいる数百人の村人が、首を長くして待っているのは間違いない。
 それにしても、この村は生気が全くないといっても過言ではないだろう。人だけでなく村全体に漂う怠惰の蔓延と、精神の疲弊、病への恐怖、死への前兆が覆っているのだ。
 砂漠化した大地が広がり、以前は畑だったとおぼしき土地は今は全く植物が生えてなかった。雑草さえ生えない。何回も何回も繰り返して薬をばら撒き作物をつくり、春なのに秋の、冬なのに夏の食べ物を食卓に並べていた結果、土地は雑草も育てられない程に病んでしまった。ここは緑のない村が連なる国であった。そして井戸は泥水がやっと底で液体の様相を示す程度である。どこもかしこも潤いは全くない。
 さらに村には生気のある人間はいなかった。老人たちは贅沢な暮らしを愉しんだしっぺ返しでみんな病気になり、よき時代を懐古し横たわるだけ。足は萎え赤紫に変色し腐っていく。女たちは姿かたちの見かけばかり気にしていた挙句、作業をする筋肉をそぎ落とし文字通り無力だ。若者は全く働く意欲がない。それは同じ色の服を着て同じもので遊び、同じものを食べていないと、麻薬が切れたように落ち着かなくなる以前の習癖のように、とにかく誰もがだらだらと、時間を浪費しているのだ。
 誰も動かない。誰も話さない。動いているのは蝿だけ。
 しかも、この村だけではない。ぼくはここに来るまでずっと、どの村を通ってもそうだった事を知っている。
 この国が瀕死なのだ。
 だからこそ、人々は待っていた。
 救世主を! 救いの神を
 かれを? かれが救世主か?
 本当に人々が待っているのがかれなのか、ぼくは確かめたいとも思っていた。おとといまでは、だ。今は空腹で考える気力もない。この村にいると一種の感染症のようにうつるのだ。この暮らし方、この時の流れにただ漂うだけで、無気力な生き方が。
 その流れに小石を投げたように、
「ユラ、あのお方がいよいよ来るよ」
 うずくまって虱をつぶしていたヒリポが言った。
「そうかね、ヒリポ、あんたは昨日もそんな事をいったけど、かれは来なかったじゃないか」
「いや、今日は絶対来る。だって見てみろよ、東の山の向うが耀いている」
「え?」
 と、たしかに山というにはいささか低い丘の稜線が、乳白色に薄明るくふち取られているのが見て取れた。
 太陽はもう西に傾いてきている。そうなると、これがそうか?
 そのうわさの主のかれの周りが光輝くというのは、救世主としての条件を十分達成していることであろう。
「おいらの勘はあたるのさ」
 というヒリポだったが、ぼくはやつの勘はどうでもいいから、早く見たかった。そして、食べたかった。
 ナダレのエスという男を。かれの作り出すマナンを。
 ぼくは心底かれに会ってみたかったのだ。その願いがやっと今、叶おうとしている。
 そしてヒリポの言ったとおりだった。薄汚れた長衣を来て、ごつごつとしたこぶのある木でできた杖を持ち、草履履きの男が粛々とやって来た。それも恐ろしく速い歩みであった。
 かれの足もとはどうしたわけか土煙がたっていない。地面の上、わずかな空中をすべるように歩いてくる。その頭の後方は光の笠のように、ぼんやりと光っている。どうやら光は調整出来るらしい。村に入る前はずっと遠くからでもわかるくらいまばゆかったが、村に足を踏み入れると弱くなり、近くに行かないと、わからないくらいのぼんやりした明るさになっていた。
 後光というのはこれか。
 かれは村の中央にある、今は全く機能していない役所の前の広場に自分の場所を定め、近くにあった手頃な石に腰掛けた。それはごく自然な、あたりまえのことのような、流れる水を思わせる動作であった。
 すると、いままで横たわり、壁にもたれていた村人が動くことを急に思いだしたかのように立ち上がり、甘いものに群がる蟻のごとく集まりだした。みんな、小石を手に持っている。そうしてエスという男の前に立つと、
「......」と無言でその石を両手にささげ持ち、さしだす。
「愛するのです」とエスは言葉をかけ、その手を包みこむ。すると、どうしたことか、石は小麦色のマナンに変わっていた。
「おい、ユラ、いこう」
 その光景をじっと見ていたぼくに言うと、ヒリポはさっと石を拾い、並んでいる村人の最後尾につかんと小走りになる。ぼくも、とうとうめぐり会えたこの機会を、逃すへまはするまいと、こちらも石を持って小走りで並ぶ。村人はエスのところまで、うねうねと蛇のように列を作っていた。
「ヒリポ、どうなんだい? 二度並ぶ者はいるのかい?」
「二度? 二度か! おいらは考えてもみなかった」
「そうか、ぼくはここ一週間くらい、空腹でこの事ばかり考えていたから。一個で足りなかったら、と考えてね」
「そうだよな」
 ヒリポは、陶酔の顔でごくりと唾をのんだ。
「あの、エス様ってすごいな」
「そうだろう。あの方は、すごいんだ」ヒリポはまるで我がこと事のように自慢する。
 しかしぼくの前に並んでいる老若男女たちはというと、かれがこの行為をするのを当然のように、感謝の言葉を言うのでもなく、喜ぶのでもなく、ただ、かれが来たからこうしているという自然の摂理のように並び、石をマナンに変えてもらい、おのが場所に持っていっては、表情もなくぼそぼそと食べている。
「なんでだろう? なぜ何も言わない? 不味いのかな?」
 ぼくが何人もの村人の様子を観察し、あまりに無感動なかれらの様子に釈然としない思いを抱いていると、やがてヒリポの番になった。
「エス様、ありがとうございます」
 マナンをもらったヒリポが言葉を発したので、彼は意外そうな顔をした。生まれて初めて感謝の言葉を聴いたような表情だった。
 そしていよいよぼくの番になった。
「お願いします」
 ぼくが小石を持った手をさしだすと。エスは両手を近づけ念をこめるように節くれだった手で包みこんでくれた。エスが握った瞬間、巨大ななにかが頭のなかにぶつかったようにずずうんと響いた。そして四つの掌が発光し、虹色から金色の光の輪舞が出現した。手が熱い!
「おおおおおお」
 エスも言葉を漏らした。ゆっくりと手が離れる。エスが離れた後もぼくの手は暖かいしかも中のものがほにょほにょ動いている。顔に近づけ、鳥の雛でもはいっているのでは、とそうっと覗きこむ。逃がしたら大変だ。小さい鼓動が伝わるその驚き、そこには、マナン、あまい香りのする食べ物が石から変わって手のひらに鎮座していた
「エス様、」ぼくはお礼をいおうとエスの顔を見た。 
 エスは面長で、眉は下がっていて、髪は白髪がまじりだが、もとは黒のまざった焦げ茶色だったと想像できる。ほこりにまみれて、ぼさぼさで、長さは肩の辺まであったそしてヤダヤ人特有の鼻をもち、唇は薄かった。
 ぼくは『唇の薄い男は情にも薄い』という言い伝えを思いだしてしまった。
 そして目だ。目は全く意外なことにいたずらをしたあとの子どものように、くるくると良く動き、落ち着きはなく、軽薄にみえた。もちろん目で人は判断できないけれど......エスの目は金色だった。どこかでこの目に会ったことがある。いったいどこだったろう?
「おまえ、なんて名だ?」
 エスはぼくに言った。
「ぼく? 東方から来た、由羅といいます」
 ぼくはエスのほうが年上とみて、敬語を使った。
「どうした? ユラ、エス様に無礼なことをしたのか?」
 マナンを口にいれたまま、ヒリポが後戻りしてきた。
「まさか、ぼくはただ......」
 と、わが手を見て、さっきの電撃のような接触を再考する。ぼくの手にはヒリポと同じマナンがあった。ほわほわしたやわやわな食べ物だ。
「......そっちのはなんという?」
 エスに名前をきかれ大得意になったヒリポは
「おいらはヒリポ、こっちのユラとは友だちです」と答える
「そうか」エス様はその後きっぱりと
「おまえたち、わたしについて来なさい」と言った。
 どうしようかと、迷いなどしなかった。ただ、エスがそう言うのだからそうしよう、とぼく達はついて行く。ぼくはエスに会うことは期待していたが、その後のことは全く頭になかったのだ。
 だが、ぼくは待っていたのかもしれない。
 一緒に行こうという一言を。
 それはなんて甘美な言葉だろう。
 一緒に行こう。
 いや正確にはエスはついて来なさいと言った。これはまるで黍団子をもらった桃太郎の家来のようだ。ただし、桃太郎には目的があった。鬼退治だ。鬼退治を同意してついていく犬や猿や雉がいた。
 エスにも目的があるのかどうかわからない。ただ「ついて来なさい」と言った。ぼくは自問する。そうしたかったのか?
 ぼくはなぜついて行く? いや、本当は知っている。誰でもよかった。ひとりぼっちの自分はついておいでといわれれば誰にでもついていったと思う。桃太郎にだって、そう、鬼にだって。
 櫻王と別れた後は......孤独だったから。
『心の中になにもないことってあると思う?』
いつか櫻王に聞いた事がある。櫻王はその時、なんと答えただろう? 
今は声のかけらさえ思いだせない。
 嘘だ。本当はあの声は忘れない。櫻王の低い声、だけど、思いだそうとすると、体が拒否反応をおこしてしまう。思い出は腹をえぐるようだ。だから思いださない。
 ぼくは思いださないのだろうか? それとも思いだせないのか? ただ無為に生きているだけのぼく。地獄の業火で、永劫の時間をかけて、からだを焦がすだけのぼく
 エスはそんな木偶人形のようなぼくに声をかけた、ついて来なさい、と、言ってくれた ぼくはかれと歩きながら考える。どうしてなのだろう。どうして手を握ってもらった時に雷にうたれたように感じたのだろう。あの時エスも何か感じたのだろうか? なぜぼくを誘ったのだろうか?
  
 一緒に歩いていて気がついたのだが、エスはそばで見ていると確かに歩行はしている。しかし体が軽いのか、足をつけていないのか、砂の上に足跡がつかない。ヒリポもそのことに気がついたのだろう。
「エス様はなぜ、このように足跡を残さずに歩けるのですか?」と問うた。
「迷える子山羊よ」エスは杖で土の上を指し示し「それは、地のの虫を踏み潰すと哀れだからだ」
 と、言った。ぼくが疑いの顔をしていると、
「では、ユラはどうしてだと考える?」と逆に問う。
「そうですね、それは訓練なんじゃないですか? たとえれば、人を超える力を養うような」
 そんなふうに訓練している人たちが、以前住んでい場所にいたと、おぼろげに思いだした。
 エスはぼくの答えを聞くと大声で笑い、
「おお、素晴しい、ユラ、おまえはきっとわたしの弟子のなかでは最高に、その名前が世界に知れわたるであろうよ」
 と言って、何度も頷いていた。
 弟子か。ぼくたちは弟子なのか。たしかにエスに従い、ついて来ているのだから、そうなのであろうか。自動的に弟子になったという事か。これから、エスはなにかを伝授してくれるのだろうか。
「そうですね」
 とぼくはマナンを一口食べる。マナンはおいしかった。ほんのり甘く、一口食べると充足感があった。体に力がわいた。ぼくは残りのマナンを懐に入れた。二度並ぶ者がいないわけはすぐに理解した。
 マナンという食べ物は、食べてもあまり減らない。それに一口食べると、何時間でも空腹感がない。エスにもらったマナンは多分ひと月ぐらいもつのかもしれない。そして後で知ったのだが、食べる人によって味が違うらしい。即座にその人の好みの味になるのだ!
 ヒリポのマナンの味はアラビアータといっていた。ぼくはかれのマナンは遠慮したい ぼくのマナンの味は、はるか昔、聖の家で食べた、いなり寿司の味だと思った。
 そこまで思考して考える。ひじり、この名もとても懐かしい。記憶が戻る手がかりにたどりつけそうなのに、何かが邪魔をして、ぼくはわからなくなる。櫻王と聖、大切な部分でつながっている気がするのに。
 亀より遅いぼくの頭の回転は、修行者のようなエスの後姿を見ていると、さらにゆっくりとなり、止まってしまったがごとき様相だ。
 それに不思議な事に、エスの後ろを歩いていると、疲れを感じなかった。エスが浮いていること、ぼくがまるでくるぶしに翼でもついているように軽く歩けること、それは同一のように思った。エスが石をマナンに変えるのと同じ理、それなのかもしれない。
 エスの力にぼくは感激した。
 エスがどこに向っているのかは知らなかった。しかし、これからもエスといっしょなら自分の常識をくつがえすくらいの出来ごとに出会えそうな予感がした。
 この国では、馬車は主に荷物を運ぶのと、身分の高い人が乗る程度しか数がなかったので、ほとんどの人は街道を歩いて移動した。
 周りは砂漠だ。街道はたくさんの旅人や商人、兵隊や奴隷、荷車、馬車がその上を通過して行った恩恵で踏み固められ、流された血を吸った罰からひび割れ、汚物が染み込み腐敗臭がしていた。そして卑猥な妖しい色をしていた。
 砂漠といってもここは端の方。砂がその勢力をどんどん広げている前哨地帯だろう 少しは植物が生えている。もっとも潅木、多肉植物、食虫植物がやっとで、太陽からの日差しを遮る大きな木陰は皆無だ。
 そんなで夜に歩いても喉は渇いた。あの廃村を出てから夜通し歩いたのだ。月灯りがあったし、エスのまわりは、ほのかに明るく青白い海月の傘がかかっているようで、まったく不便ではない。エスは疲れた様子はまったくなく涼しい顔をして歩いていた。
 そんなとき前方にオアシスが現れ、日が昇ってきたので、エスはここで休むと言った 緑の下はひんやりとここちよかった。
「夕方には湖にむけて出発する。ガラガラ湖だ。それまでは少しの間ここで眠ろう」
 ぼくたちは従った。
 ぼくやヒリポの着ているのは、簡単な一枚の布に頭の部分を丸く開けてかぶり、腰を紐で結んだものだ。エスも同じようなものだが、丈はくるぶしまであり長かったし、生地の風合が何となく高貴な印象はあたえるにしても、何時もどこでも地面に座っているらしく、土まみれで、得体の知れぬ塵も付着していたが、本人は全く気にならない様子で横になった。
 ヒリポはすぐに眠ってしまった。ぼくはなんだかいろいろなことで興奮して寝付かれず、木陰からの木漏れ日を見ていたが、
「石がマナンに変わったとき何を感じた?」
 と、おもむろにエスが尋ねてきたのではっとした。眠っていないとわかっていたらしい 琥珀色の、ある時は金色に変わる目がこちらをじっと見ている。
「うーん、ぶつかったみたいな強い力です」と、答える。
 エスは眠らないのだろうか?
「あれを感じられる者はめったにいない。どうやって石をマナンに変えると思う?」
「さあ? ひょっとして手妻ですか?」
「おお、もちろんその要素もある、しかし、仕掛けがなくてはできないだろう? それにあんなに多くの石を変えるのは無理だ。」
「もっともです。ではなぜ石が食べ物にかわるのです?」
「それはな、物質を形作っているのはうんと細かい目に見えない程の粒だが、石を一気にその粒まで細かく分断してまた、違うものをちょいと加えて即座に練り直す。まあ、錬金術のようなものだよ」
 錬金術は魔法だろうか?
「ああ、あなたは魔法使いですね?」
「いや、わたしは救世主だから出来るのだ。」
 救世主。
「やはり、そうなんですか」
 このエスという男は本当に救世主なのか? 自然の営みが壊れ、人の心も荒廃し、戦いでだれもが疲れ、全ての秩序が失われた時に現れ出で、信心深いものだけを、その地獄からお救いになる救世主なのか?
「では、救世主とお呼びしますか」
「いや、ユラよ、おまえが一番よく知っているはずだ、いまだ早いのは」
......ぼくが、なぜ?
「エスと呼べばよい、それより、なぜこの術ができるようになったのか、なぜわたしが救世主なのか聞きたくないか?」
 ぼくは他人の自慢話はあまり聞きたくなかった。それに、この人が救世主になるとしても、まだ途上だとしても、ぼくのこの地獄から救ってくれるとは思わなかった。でも、エスはとても話をしたそうだし、いくら静かに横になっていても眠れそうにない。こんな心境に囚われる時は、聞いてもいいかなあ、と、その場ではその程度だった。
「そうですね。聞きましょう」
と答えると、彼は嬉しそうに話し出した。
「わたしはナダレの村で生まれた。父親は大工のヨハネスという。母はユリアと言って、ヨハネスよりも親子ほど年が若かった。ユリアは美しい顔と姿の乙女だったが、他の女が持っているものをうらやむ事ばかりで、ある日友達のエミリが羊飼いと婚約すると、自分も、すぐに婚約しなくては、と逸り、丁度、屋根の修理のために大工仕事に来ていたヨハネスにふたつ返事で承諾させた。ヨハネスは若い妻を持ち断然張り切った。しかし、家計の方はユリアが見栄を張って散財するので、苦しくなるばかり、ある日ヨハネスに
『あんた出稼ぎに行ってきて』
と、たきつけエズプトまで行かせる。そして次は、エミリが身籠ったことを知ると、地団駄を踏んで、
『ああ、失敗した。こんなことだったら亭主をエズプトに行かせるんじゃなかった。子どもを作るのはさすがに一人じゃ無理だわ』と怒った。
 その時に暗いがらがら声が頭の後ろから、ずぶずぶと湧くように聞こえた。
『ユリア、たとえヨハネスが居たところで、あの老いぼれじゃあ、子どもは無理なんじゃないか』
 黒い頭巾のついた外套を、頭からすっぽり被った男が立っていた。人相はぼやけていてはっきりしない。目のあたりがぽっかり黒い穴があったが、鼻や口は判別できないくらい陰になっていて、ぞっとするくらい禍々しい姿だった。
『あんた、だれ? そのいいかた失礼でしょ』
『だが事実だろう。おまえはいつも一人寝で、歯軋りをするのが関の山だ』
『あんた、何を知っているの?』
『ユリア、お前に種をあげよう。邪悪でとことん汚い、人間には想像もつかないくらい、陰湿な鬼の種を。おまえの腹に根付いたら、おまえの負の精神を餌に大きくなるだろう』
 男が外套を広げると、うまいぐあいに折りたたまれた、両手を広げたよりも大きな翼が現れた。こうもりのような、骨に薄い膜が張っている黒い翼だった。そこには鶏の卵くらいの胞子がたくさんぶら下がっていて、男が一つを右の指で挟み捕り、ふっと息をふきつけると、たくさんの綿毛のついた種が、黄色の粉をまきながらとびだし漂いはじめた。ユリアは呆然と見ていたが、やがて、そのなかの一つが吸う息と一緒に、からだに入っていった。のどの奥でひっかかったようで、ユリアは生唾を飲み込んだ。
『おめでとう、ユリア。救世主が宿った』と男は告げた。
 ユリアは処女で身籠った。」
「生まれた子どもが、わたしなのだ」エスはちょっと得意げに付け加えた。

「ではエスのお母さんは、ユリアさんなのですね」
 ユリアの事は知っていた。あちこちの村に貼ってある紙だ。ずっと昔に印刷されたものだろう。破れ、壁にへばりつくように『ユリアの子育て講演会―わたしはこうやってエスを育てた』と、挿し絵まで描いてある。ユリアは国中を回り、講演しているという。駱駝が行列を作り女性解放運動の横断幕が掲げられ、意見を同じくしている沢山の女が金魚の糞のようについて回っているという。ゴムの木の粘液を噛みながら、ユリアを信望し、一緒に行動することで、自分らしさを探そうとしている集団だ。
 ユリアの顔を見たものは必ず目を一回は目を伏せ、そしてその次は凝視する。だれかの隙をうかがうような、奸智にたけた印象の大きな瞳。高慢そうな鼻。そしてどんな意見も聞かない意志のあらわれの小さい耳。肉のそげた頬。何よりも印象的な唇は言葉を語るたびに嘘がこびり付いたようであった。
 どうしてそう感じるのかはわからない。たとえビラでもユリアの顔を見ていると、こちらが気恥かしくなるような気になる。しかし、それはあくまでもぼくの印象であり、実際は美女という部類なのだろう......それになんだか以前に彼女にあったような気がする。どこでだったか?
「そうだよ、おふくろはわたしを産んだ事で、女としては最高の地位を獲得したと思っているらしい。以来、他人をうらやむことはなくなったが、自分の人生観を勿体つけて話す事で、尻に尾羽をいくつも糊付けしている虚飾の生き方なのだ」
 エスは苦々しく言った。
「立派でないかしら」
 ぼくは事実そう思った。そういう一本筋の通った生き方をする人は、ここにはいないのだ。男も女も誰もが無為に時を浪費しているように、感じていた。彼女の考え方は良くわからないが、自分らしさを出す事で、他の人になんらかの喚起を呼びかけているとしたら、それはそれで意味があると思う。
 エスはまた変わった生き物を見るようにぼくを見た。
 ぼくはエスに聞いた。
「ユリアが産んだあなたが救世主になる、というのは明白だったの? だってその禍々しい男が言っただけの事でしょう? みんなはなぜそうだと信じたのです?」
「それがな、不思議なのだ、こんな逸話がある。おふくろはわたしを産んだのは農家の馬小屋だった。なにしろ出稼ぎから戻った親父とおちあったあとは、住まいがなかったからな。わたしが産まれおちた時、東方から三人の博士が来た。そうして、『ヤダヤの王がお生まれになった』『のちに救世主となるだろう』と、託宣し、ビラを配り、爆竹をならし、踊りまわったというのだ」
 馬小屋。みどり子。飼い葉おけ。三人の、
 何だろう、この懐かしさ。ぼくの記憶の中の細胞がぴりぴりと刺激されている気分。
 また手がかりとなるような鍵の言葉のいくつか。以前、こんな言葉を聞いた事がある 櫻王が「ヤダヤの王と救世主」と言っているのを。でも曖昧な記憶だ。
 ぼくはずっと考えていた。エスに会う前、ヒリポと一緒だった。その前、ぼくはどこから来たのだろう? 
 憶えていない。憶えているのは僅かだ。名前は由羅。東方からの旅人。ずーっと三人で旅をしていた。櫻王という男ともうひとりは女.性.....聖だ。
 ぼくらには役目があった。そのためにここに来た。櫻王の事は何でこんなにちょくちょくと思考の邪魔をするのか。かれのことはとても懐かしい......反面、沼の底に沈むような嫌悪感がある。
 別れたのだ。
 なぜ? 信じてなかったから。どっちが? ぼくか? ああ、だからひとりになろうとした......
「退屈か、ユラ。おまえには興味ない話か」
 エスがぼくの思考の邪魔をした。もう少しで肝心な事を思いだせそうだったのに......
「いえ、そうでなくて、ちょっと、ある事を思いだしたものですから。それが、あなたの誕生と繋がっているような、そんな気がしたものですから」
 そうどこかで。
「ふむ」
「どうぞ、続けてください」
 エスの話は、まだ、不思議な技ができるようになった肝心なわけまで、到達していまかった。
「いや、今日はここまでにしよう。わたしの身の上話より、こっちのほうがおもしろい」
「こっち、とは?」
「ユラ、おまえはやはり、どこか普通の人間とは違う。まずわたしがこんなことを打ち明けたのは、唯一おまえひとりだ」
「......」
「そして、ユラ、おまえはそのどんな話にも素直に納得して、また適切な感想を抱く。わたしはずっと、こういう人間に出会う事を願っていた」
 エスはいつの間にか、ぼくのすぐ側に来ていた。蓮華座で座り胸の前でふたつの手を合わせ、真面目な顔で言った。
「ユラ、ついてきてくれたこと感謝している。これからも、一緒にきてくれ」
 ぼくはエスの真剣な表情に打たれて、こくりと頷いた。
 この時エスは第一印象よりももっと子どもっぽく見えた。それも大海原に浮かぶ一艘の船のような孤独な子どもだ。エスはひとりぼっちだった。たぶん、今までずっと......そして確かなことは、ぼくもひとりぼっちだった。
 
 ガラガラ湖はヤダヤの国では一番大きな湖だ。対岸が見えないくらいはるか遠くにあり、多くの漁師が網をうって、暮らしを立てているらしい。これはもの知りのヒリポからの情報だ。
 街道沿いの村では、湖の岸にへばりつくように、人家あるいは作業所や倉庫が軒を並べ、湖の波が打ち寄せる水際と、家々の間にはところ狭しと、網や、舟の帆、浮きなどが干してあった。
 しかし、この漁村も静かだった。だれの声もしない。漁のおこぼれにあずかる鳥も、空に影を作らない。目をこらし、人影を探すと、やっと、一軒の家の軒下に二人の男が立っているのを見つけた。
 エスはぼくに、
「聞いてきなさい」
 と言った。何を? 
 しかしぼくは歩いていくと、いとも自然に、たぶんエスが望んでいたであろう質問をしていた。
「いったいどうして、この村はこんなに静かなんですか?」
 ぼくの声をきいて、二人は緩慢に頭を上げた。
「静かだっていいでしょうよ、それがあなたになんの関係があるんです?」
 年かさにみられる男が答えた。首をぼりぼりと掻いている。首についていているイモムシのような垢が、ぼろぼろ落ちる。陽に焼けている肌や、太い腕、腰巻だけのその服装から、漁師なのは見て取れた。......確かに、関係はない、しかしぼくは自分でも信じられない言葉を話していた。
「あちらの方は救世主なのです。なにか思う事があったら、話してみなさい」
 おお、とも、ああ、ともいえないうめき声の後、男が急にエスに近寄り、強い口調で言った。
「だったら救ってくださいよ、救世主さんよ、一匹も魚がかからないですさ。網をうっても、竿を使っても、ザリガニさえもかからない。これじゃあ、おれも、アンドーレも、おしまいですさ、商売あがったりだ。なあ、アンドーレ」
「そうとも、パトロ兄さん、これではもう漁師を続けていけない」
 側にいた、あまり似ていない男が言った。こっちは華奢な体つきで、着ているものはやはり布状の腰巻きだけだった。
「あんたは当然この事実を、この世の終わりのような退廃を、おれたちの苦しみを、知ってなさるんだろう、救世主さんよ」
 パトロとよばれた男はゆっくりと体を揺らす。身体の大事な場所を隠している粗末な布は、かつては衣服だったかもれないが、今は魚くさい切れ端で、かろうじて役目を遂行していた。いつかずり落ちないかとぼくはどきまきした。そしてかれはエスに歩み寄り、抗議するように言った。
「このガラガラ湖では、ずっと魚が獲れない。湖が一面に血のように赤くなってしまった時からだ。あの後たくさんの魚が腹を上に向けて死んで、どっさりと岸に打ち上げられた。湖はもう今では、魚は一匹もいないのでは、と考えている。いやたぶんこれからもずっと。そうだとしたら、救世主さんよ、あんたは、助けてくれるのかね。魚が網にかかるようにしてくれるのかね」
「そうだ、救世主なら助けてくれよ」
 兄弟らしいふたりはエスに向かって、直談判するように詰め寄った。するとエスは、
「おまえたちは漁師でありながら、魚がいないから獲れないという。では、湖に本当に魚がいないのか、どうか、わたしが試しに漁をしてみよう」
 というと、身軽に衣服を脱ぎ始めた。そしてこちらも腰巻一丁になると、
「ユラ、ヒリポ、お前達が舟を操るのだ」言う。
 そして真っ直ぐに前方を指し示した。
「舟?!」
 舟を調達しろということか?
 ぼくたちはあわてて、湖岸の石浜の上に停めてある舟を見渡した。ぼくたちは、いまこそ弟子の本領発揮の場面だ! と、なぜか興奮し、身のほどをわきまえ、自分たちでも、漕ぐ事ができるようなものを探したところ、容易に見つかった。岸辺にはいろいろな種類の舟が放置してあったし、パトロとアンドーレの兄弟の他は、この湖岸に、猫一匹ネズミ一匹いない有様だったので、手頃な舟を見つけると、断りもなく拝借することにして、
「用意できましたぁ」と声をかけた。
 まるで芝居の一場面のようだった。
 エスは慣れた動作で加わりその舟を一緒に押して、いっきに岸から湖面に滑らせた
 足が湖の水に触れると、嫌な感覚がした。
 まるで、死人の手のひらがふれているような。
 ぼくはそれをふり切るようにあわてて乗り込む。すかさずヒリポも飛び乗り、二人で櫂を使ってこぎ始める。この粘っこい足にまとわりつくような感覚は、油が表面に薄く膜を生成っているのだろうか? でもそれなら、魚が住まないのはあたりまえだ。ぼくが深刻な顔で、舟を漕いでいるのを見て取って、
「ユラ、魚はいないと思うかね?」
 エスが言った、彼の手にはいつのまにか網があった。これもかれのお得意の、例の錬金術なのだろうか?
「はい、この、変な粘っこい水では、魚はいないと思います」
「エス様、ガラガラ湖は、山崩れでせきとめられた湖ですから、流れ込む水が少ないのではないですか。汚れた水がたくさん入り込むのでは、ないですか」
 ヒリポが言った。ぼくはヒリポが賢い事にいつも感心する。ヒリポは、いろいろな人から聞いた話を、頭の貯蔵庫の中に名札をつけた箱に入れて積んでおく。的確な場所、時間にそれを引き出してくる。そうしないと、これまで生きてはこれなかったから、というのが、彼のくちぐせだが、昨日のエスとの遭遇、そして同行、この成り行きなどにも、少しも怯む事なく対処していることに、ぼくはあらためてヒリポの存在を頼もしく思ってしまう。
「うん、なるほど、ヒリポ、たしかにそうかもしれないな」
 エスも感心している。ぼくは
「それに、このごろ、雨が少ないです」
 と、付け足す。ぼくだってこのくらいは知ってるさ、という心境だ。
 ヤダヤの国は三年間旱魃が続いていた。さらに、土が疲弊していて、作物はほとんど出来ず、飢え死にする者もでている。いまやとなりのエゼプトから、物資を物乞いをしている状態だ。エゼプト王とのかけひきにヤダヤの王は......
 そこまでぼくの思考がのろのろと亀の歩みの速さでたどりついたとき、エスが
「そうだな、湖の魚は息が苦しいだろうな、ああ、停めてくれ」
と、舟を静止させた。
 岸から五百米はきただろうか。素人のふたりこぎ手にしては精一杯の距離だ。ここからでも、桟橋の先端あたりにあの兄弟が立っているのが見える。こちらをじっと見ている。あんな事をしても無理なのに、と言った諦めの顔つきだ。実はぼくも、魚がとれるかなんて、半信半疑の気持ちだった。
「では、網を投げるぞ」
 エスは網を遠くへ、まるで空中飛器でもとばすように放り投げ、網は、意志を持つ動物のようにしなやかにゆっくりと、水中に沈んでいった。
 エスは舟の上で立っていた。こうして改めてエスの体を見ると、痩せてはいるが、上腕部にも、大腿部にも筋肉が薄くついていた。しかし、不恰好なのはなぜだろう? 背中が曲がっているからだろうか?
 背中の肩甲骨のあたりにあるふたつのこぶは不気味だった。まるで、もげた翼の付け根のようなでっぱりとなり、どす黒く変色していた。
「エス様は魚を取った事があるんですか」
 ヒリポが尋ねた。エスの手つきが鮮やかだったからだろう。
「いや、もとは大工だった。そのあとはジプシのように流れ、なんでも屋をしてきた。そうだよな、ユラ?」
 お父さんが大工と言うのはきいていたが......エス本人も大工をしていたとは初めて聞いた。
「そう、らしいです......」
 なんにしてもエスが器用なことにぼくは歓心する。手際も良く正確な動きをする。ぼくは不器用だからなおさらうらやましい。
「さあ、そろそろかかっただろう」
 エスは網の重さを推し量るように、ちょいちょいと動かしてみる。
「おお、かかっている」
「本当ですか?」
 水の中に魚がいた。
「たくさんだ。これがわたしの、愛だ」
 エスがぼくをみて笑った。
 愛! 愛なのか。ともかく、ぼくはエスの力に感激した。


 愛の奇跡に続く