矢じりのかたちを作って、空を渡って行ったという。それでこういう名になった。おれはひとおれの名の雁也の雁は、鳥からつけたものだ。おれが産まれたとき、外に出ると、雁がの名っていうのは適当なところも多いと思うが、巳ノ助はかまきりに似ているが、蛇を思わせる面があることも否定できないし、なにかしら因縁ってものもあるのかな、とも考える。とにかく、いっしょの板間にいても、巳ノ助は徳利を片手に酒を呑みながら、見えない垣根をこさえて座っていた。獲物をねらっているというわけではないだろうが、目を細めてじっとこっちを見ている姿は、ぞっとするものがあった。
「おまえ、せんせいの甥っ子なんだってな」
「そうらしい」
「そうらしい、か。なるほど。肝がすわっているところはせんせいに似ているかな」
「......」
「せんせいは、見かけはおっとりだが、なかなか強いぞ」
「へえ、歌のせんせいってえのは景色の美しさや、惚れたはれたの恋心を詠っているだけかと思っていた。何が強いんだい?」
「......おまえ、やっぱり鋭いな。学はあるのか」
「寺子屋は、さぼってばかりだった。かったるいし」 
 しかし番屋では暇つぶしに瓦版だけでなく書きつけとか、帳簿、人足改め、訴状なんかをこっそり見ていた。見ているうちにかな文字と簡単な漢字くらいは読めるようになった。
「まあ明日から、よろしく頼むわ。おれが当分あんたの世話係りらしいからな、間抜けよりは扱い易いだろう」
「そうだな」
 おれはよろしくと言う言葉をのみこんだ。そんな言葉はいいたくなかったし、成り行き上こうなったとはいえ、長居をするかどうか自分でもわからなかった。
「おれは何をするんだ」
「たぶん、半年ぐらいあとに薬種問屋に奉公に行ってもらう。その準備のためにいろいろ身につけてもらう」
 おれは絶句した。どうやら、おれはもう、何かのなかにすでに組み込まれているらしかった。おれの意思とかは全く関係なく、ただ、昇月という歌人の甥というだけで、何かの一部分になっているらしい。薬種問屋か。なんだろう? おふくろの止まらなかった咳に関係しているのだろうか? 首の後ろがちりちりと逆立った。
 翌日から、おれは巳ノ助の指示で働くことになった。といっても、朝起きたら、井戸に行き水を汲み、屋敷内をひたすら掃除する仕事だ。部屋の隅々まで、とにかく入念に、日が暮れるまで掃除をする。
 巳ノ助はこう言った。
「ただ、するのではない。細かいところを見ろ。畳。襖、鴨居、天井、とにかく見ろ。何で出来ているのか。方向はどうなのか。模様はどうなっているのか。木の節目はどこにあるのか。柱の位置。それぞれの木の材質。障子の目の数。陽の光はどこから入って来るのか。それから、見るだけでない。触れ。女を触るみたいにゆっくりと撫でるように。手触りを憶えるんだ。おまえの親父は木舞屋だっていうじゃないか。お得意だろう。壁の中まで見ろ」
 おれは掃除夫か、なんのためにこんなことを、これがせんせいの手伝いか、と思いながら、呆然として立ちすくんだ。
「かったるい」自然に口から出てしまう。
 しかし、雑巾を手にもってぼおっとしていても、何も言われなかった。鼻糞をほじっていいようが、寝転んでいようが、何も言われない。おれは寝転び、天井の木の節を見たりもした。畳に横たわり、規則正しい目の数を勘定もした。それから、おれは、長い時間かけて、いちおう掃除もした。座敷、廊下、便所。そうしながら、いろいろなものを見た。部屋のなかを歩幅で計ったりした。せんせいといわれている伯父は、たいてい居なかったので、その私室も掃除した。ここで暮らしているわけではないからか、伯父の人となりを感じさせるものは何もなかった。
 ほこりは毎日確実にくっついていた。掃除か埃との戦いなのか、とも考えたが、その埃というのも、なにから出来ているのか、よく見ると面白い。綿ぼこりはふわふわと宙に舞うし、土や砂の埃はとにかく湿った雑巾で拭かないと取れない。虫けらの死体もあったし、人の毛っていうのも案外多い。短いのや縮れたもの、色。一度女の長い毛があった。どうして女のものかわかったかというと、おとしと同じびんつけ油の匂いがしたからだ。誰っか女がこの家に来たんだろう。
 乾いた布にはぜの蝋をつけてみがくと、美しい光沢をはなつ木もあった。米のとぎ汁も使った。おれは毎日、だらだらしながら、時々掃除をした。冬の日差しの中で埃が輪舞するのを、飽きずに眺めていた時もあった。欄間にほどこされた彫刻の線から線のつながりを視線でたどるのも、楽しい時間だった。伯父はめったに家にはいなかったし、巳ノ助も年中監視しているわけではないのでので、おれは時間をたっぷりかけて仕事をした。
 いつの間にか、かったるいとは言わなくなっていた。
 ある日、その伯父の部屋で襖の引手が、ひとつ違うことに気がついた。始めは気のせいかと思った。ちょっと見ではわからなかったが、色が微妙に違かった。それから、材質も少し違う。おれはこの材質と同じ引手がどこかにあったような気がして、部屋をぐるりと見渡した。
 天袋に目が留まった。
「あれか」
 低いところから見ても、一箇所だけ、違う。さっきの襖のほうと取り換えたのか!
 おれはもとに戻してやれ、と考えた。
「これはおれの課題なのか?」
 物置から踏み台と道具箱を持ってきて、その引手を交換した。
 次の日から、おれの課題は第二段階に移ったらしい。もっといろいろな、謎々が仕組まれている。ある時は畳みのへりに編みこまれたこよりであったり、あるときは、掛け軸の絵の中に、今まではなかった花びらが書き加えられているのを見つけ、その薄紙を傷つけないように取り除くことであったり......
 この時はそうとう気をつかった。どうすれば、もとの絵を損なわないではがせるか。桶にお湯を汲んできて、その上に掛け軸をのせ、そおっと湯気でふやかしてから、糊を柔らかくして、そろりそろりとはがした。そのときは自分でも夢中になっていたと思う。
 とはいえ、伯父のほうもおれが飽きっぽいのを知っているのか、おなじ課題は出さない。
あの時は伯父も楽しんでいたのだろうか? 欄間の木の彫刻には十二支が彫りこまれていたが、その中のウサギに紅玉の目がはめられていたのには驚いた。おれはそれを外し、さっさと自分のものにした。当然だと思った。紅玉に千枚通しで穴をあけて根付にした。
 何も見つけられない日もあった。あるいは何も仕組まれていないのかもしれないが。おれは、そんな時でもいろいろなものに触って過ごした。木も壁も皆、それぞれ違っていた。庭に目をやると、雪見障子から見る景色は美しく、飽きずに眺めた。
 ある日、畳の上にごく小さい土のくずが落ちていた。埃かと思ったが、その前の壁に違和感がある。おれは拳で壁を叩いてみた。空洞になっている音だった。おれはそのからくりを見破ろうと考えた。やっきになったが、いくら押したところで、壁のままである。その日は正面や斜めから、上から下から長い間にらめっこをしたが、結局どうにもならなかった。
 夕餉のときに巳ノ助が
「雁也、掃除は今日までとする」
 と言った。おれは
「なんで」
 と焦った。あの壁のからくりが解決していなかった。それともそれで落第したのか?
「せんせいからの指図だ。そう命じられた。明日からは、あの」
 といって、土間で働く蟹股の男を指さした
「丑造の手伝いをしてくれ」
 おれはまじまじとその男をみた。いつも土間で、這い蹲るように下働きをしていた。おれは今度はおさんどんか、とがっかりした。女子どものやることだ。
「そんなのは男のやることじゃない!」
「おめえはまだ餓鬼だ」
 巳ノ助はきっぱりと言った。
「餓鬼には餓鬼にあった仕事がある。生意気な口なんぞきくには十年早いわ」
 そうすると、すっと立ち上がり出ていった。
 おれは次の日から、自分にあてがわれていた物置の部屋から起きると、ためらいながらも厨に行った。
 丑造はすでに飯を炊き始めていた。おれの姿を見ると、
「裏の畑から葱をとってこい。汁の実にする」
 と言った。おれは戸外の寒い空気にぶるっと震え、身を縮めて葱を探しにいった。葱は畑の畝で、霜をかぶりしぶしぶ土にしがみついていた。二、三本引き抜いてかじかむ手で持っていくと、
「切れ」
 という。おれは桶の水でさっと洗い、そばにあった包丁で切った。
 だんだんだん。大きさなんて知ったこっちゃない。まな板がぐらぐらして大きな音をたてた。葱が躍り上がって何個かは土間に落ちた。かまどで煮え立った鍋に入れた。ぐつぐつ煮立って葱があっぷあっぷ溺れているのがおかしかった。丑造が野太い声で言う。
「おお、うまそうだ」
 そのあとは何も指図されないのをいいことにぼんやりと丑造の作業を見ていた。丑造はしばらくすると鍋に味噌を入れた。すぐに抜きおろして鍋敷きに置く。
「ほれ、かまどがあいたぞ」
 急に言われてもなにをしていいのかわからない。
「かまどの火はいつか燃え尽きる。その頃合を見定めるのは容易でない」
 丑造はそのあと、もう一回水の張った鍋をかけたが、関心はほかにあるようで、厨の隅で、桶をずらしたり、重ねたりしている。
「今日はこれを食うべ」といって、白菜の漬物を一株出してきた。おれに切れ、と差し出すので、おれはさっきの包丁とまな板で、それをざくざくと切った。
 その間に丑造は膳の上に炊きたての飯と、葱の汁をよそった。おれが漬物を切ると、それも小鉢によそい、おれの膳につけた。
「食おう」
 おれは二人だけなのか、と思った。丑造はすでに飯を口に押し込んでいる。
 おれも空腹だったので飛びつくように食べた。丑造の飯の炊き方はおとしより上手だった。漬物に箸ではさみ口に運んだときに
「あ」
 丑造がちらりとこっちを見た。
「これ」
「どうした」
「いや、なんでもない」
「莫迦、これはお前の宿題なんだ。何を感じた?」
 この時の丑造には答えなければ許されないような迫力があった。
「あ。あの、漬物が葱臭い」
「ご名答だ。臭い野菜はまな板や、包丁に匂いが移る。そのあと良く洗わなくては」
「はい」
 おれは素直に言った。
 おれは葱の味噌汁を飲んだ。いつもの味と違った。
「......」
「雁也、こんどはどうした」
「なんか、うまくない」
 なんていうか、ただの、というか、味が塩辛いだけ、というか、
「それがわかるか。いつもわしが作るもんをただばくばく食っているだけだと思ったが」
 確かに巳ノ助について毎日掃除をしているときも、飯は呼ばれる度にここで食っていた。おとしのところでは飯には不満も愛着もなかった。腹が膨れればいいと自分では思っていた。しかし丑造は手間暇かけて、飯を作っていたし、それを何度も、何日も食べているうちに、おれも味がわかるようになったのかもしれない。
「どこが違うんだ?」
 おれは降参だ、と思った。葱か味噌か?
「答えは出汁に煮干を入れなかったからだ。一晩水につけておいて、煮え立ったらすくい出す。そうすると、いい出汁がでる」
「なんだか、これでは味が物足りない」
「ふん。たいしたものよ。初日は合格だな」
 昼飯のときも、饂飩を茹でるにもいろいろなやり方があることを知った。食材にはすべて、歯ざわり、味や香りがあって、目で見ただけでなく、舌、鼻を使うことを日々、教えこまれた。おれはこれがなんの役に立つんだ? と思った。こんなことが、と。それでも、おれはそれなりに言われたことをやり、ひとつひとつ憶えながら日々を過ごした。
 ある日せんせいが来た。巳ノ助も一緒だ。巳ノ助は商人のように、髪も整え物腰も控えめである。着物もいつもの着流しでなく羽織を着て、番頭か若旦那といった様子だ。おれは唖然と眺めた。巳ノ助は目つきさえ変えていた。まるで別人だった。おれは私室に呼ばれ
「雁也、おいしい煎餅を買っておいで」
 と言いつけられたので、これはいったいどういう課題かと釈然としないまま買い物に行った。伯父の家から町までは四半刻くらいの距離で、時々は丑造と細々としたものを買いに出かけていたので、様子は知っていた。町には通りを挟んで二件の煎餅屋があった
 ひとつの煎餅屋は汚い建物だった。もうひとつは新しい作りだった。喜多やというのがそっちで、店の前には客がいた。もうひとつの古い構えのほうは年寄り夫婦が煎餅を焼いているのが表からでもわかった。そっちは丸やという名だった。
 どっちで買えばいいのだろう? おれは迷った。短冊の値段は丸やの方が高かった。
 おれは煎餅屋の前を行ったり来たりした。時々女や年寄りが来ては、店に入ると、出るときは包みを抱えている。どっちの煎餅がうまいのか、聞いてみたほうがいいのだろうか?客は喜多やのほうが多いところを見ると、そっちがうまいのか?
 それとも、丸やは材料を吟味しているから、高いのか?
 おれは店に近寄り匂いをかいだ。丸やのほうは香ばしい煎餅の焼ける匂いがした。喜多やでは、今は焼いていないのか、匂いはしない。
 そうだ、味見をして決めよう。おれは喜多やの暖簾をくぐった
「いらっしゃい」
 煎餅を並べてある、平らの棚の後ろに男がいた。のっぺりとした顔の男で、物腰も低く、小汚いなりの子どもが入って来ても、邪険な顔はしなかった。おれが着ているのは家を飛び出してきたときの着物で、丑造に指図され洗濯は何度かしているが、みすぼらしいし、胡散臭い態度を怪しまれるのでは、と構えてしまう。
「おい、煎餅一枚でも、売ってくれるかい?」
「ああ、いいとも。どれにする? 塩煎餅、しょうゆ煎餅、砂糖かけ煎餅」
 おれはごくっと唾をのみこんだ。砂糖かけっていうものは食べたことがない。甘い味は幸せに通じる味だ。おれはとっさに言った。
「砂糖かけ、」
 男は煎餅一枚を長いはしでとると、紙ではさんでくれた
「はいよ」 
 おれは小粒を渡した。
 おれは小走りで店をでると路地に座り食べた。うまかった。砂糖はめったにない久しぶりの贅沢で、舌にのせると甘さがじわじわと溶けてくる。おれはもっと食いたくなった。ふと路地の奥に醤油の樽が並んでいるのを見た。なるほど、これを使っているか。樽の名前を確認したあと、今度は丸やの裏にまわり、樽の名を見た。同じく銚子のものだった。
 おれはよく考えた。
 しょうゆ煎餅を十枚買って帰ると、伯父はにこにこしながら、それを広げ食べさっそく始める。
「うまい! うまいねえ」
「......試験は? おれは合格か?」
 昇月せんせいは答えないでこう訊いてきた。
「雁也、どうしてこっちの店にしたの」
「どっちも同じ醤油を使っていたけど」
「ほう」
「丸やのほうは店の裏で煎餅のもとっていうか、醤油をつけて焼く前のあの飯をつぶして平たくしたものを簾の上で干していたから」
「丸やは煎餅の生地を天日で干していたから、うまいかと思ったのか」
「ああ、なんとなく」
[凄い! 雁也は干すと、味が変わることを知っているのかい?」
「丑造が、魚やら、大根やら干していたから」
 お日様の力で甘くなる。そういっていた。そんな仕事は楽しそうだった。実際、干した大根は煮付けにしてもうまみがあった。丑造の仕事はきりがなく、おれは面倒臭いのではないかと聞いたことがある。手間をかければそれだけ美味しくなる、物事を成し遂げるというのは、手を抜かず、かつ手順を踏むことでうまく行く、というのは丑造のよくいう言葉だった。蟹股で、畑と井戸、厨を何度も行ったり来たりする丑造はおしゃべりではなかったが、巳ノ助よりは親切で、いろいろ教えてくれた。そんなときも手は常に動いていた。
「雁也はよく修行しているんだね」
 せんせいは目を細めてそう言った。
「まあ、ね」
「ところで、あたしは考えるのだけれど、じゃあ、どうして喜多やさんのお店のほうが繁盛しているのかい?」
「さあ、そんなの知らない」
「店番にだれがいた?」
「男」
「どうだった?」
「まあ、親切」
 腰も低いし女の客にも丁寧だし、おれはおやじと同じ職人や、捕り物の手伝いをする男しか知らなかったから、『商いをしている男は、ずいぶんと優しげなんだな』と思った。
「そうだね、味だけでなく、客あしらいがうまいか下手かでも、お客は動くものさ。美人と言う評判の娘の店番がいれば男が覗きに行くしね」
「......」
「それに値段だね」
「あ、」
「喜多やのほうが安いときちゃ、皆そっちを買うだろうし、そうすりゃ店も建て直し、手入れが出来るね」
「そっか」
 おれは喜多やのほうが出入りの多かったことを思い出した。
「雁也。でも、あんたは驚くほど飲み込みが早いね」
「いや、でも」
「これなら、少し早くても心配ないね」
 おれはすぐに例の薬種問屋の話だとわかった。
「おれはなにすんの」
「ある薬種問屋に入って、下働きの仕事をしてほしい。そうして時々は丑造や巳ノ助が訪ねて手紙を渡すから、調べてその返事を寄越しなさい」
「あ、駄目だ。字は書けない。手習いしたことないから。読めるのはかな文字だけ、漢字も少しだけなら、なんとか読めるけど、」
「それはかえって好都合。口で教えてくれればいいんだよ」
「薬種問屋の、その話断ったらどうするんだ」
 伯父はおれをじっと見つめた。
「するもしないもあんたの好きだよ」
 おれは絶対断らない、そういうふうに考えている自信のある顔だった。
 おれは溜息をついた。一緒だ。おれは蜘蛛の巣にかかった獲物と同じだ。逃げられない。断ち切れない糸。親父は死に、継母のおとしの所から飛び出し、縁なんてものからは無関係に生きていこうと思っていても、また、粘つく糸にからめ取られてしまう。伯父と甥という関係は、おとしとの関係よりもっと絡んでいるように思えた。おとしはおれが出ていっても屁でもないだろうから。
「わかった。薬種問屋に行く。そこでいろいろ調べろってことだろ」
「ほんとにお前は物わかりがいい。さすがお未未の子どもだね」
「おれの父親は同心のお手先もしていた」
 おれは、せんせいが未未ってその女のことしか言わないので、なんとなく意地悪な気持ちもあった。せんせいはおれの言葉にすこし表情を変えた。眉をぴくぴくさせる。
「薬種問屋の主人とは毎月一回、歌会で会うから、おまえもそこにお供しておいで」
「おれを連れていくかね」
「そりゃ、大丈夫。絶対にね」
「そいで、伯父さん、じゃ無かったせんせい。おれはいつまでそこにいる」
「そんなに長くない。一年ぐらい。その後おまえは自由だよ」
 その時おれは自由になれることよりも、なんとなく出来てきた丑蔵や巳ノ助とのつながり、伯父とのこういう関係も立ち消えることを一瞬だけど寂しく思った。さっきは蜘蛛の巣にひっかかった虫そのものと考えていたのに。この有様だ。
 生まれ育った親父とおとしの家ではなく、こっちの方になにがあるというのだろう?
 おれはそれでも、なんか、その時せんせいにもそういう、寂しいみたいな気持ちを持ってほしい気分だったのかもしれない。こう言った。
「それで、うまいことその仕事を手伝えたら、おれはなにを貰えるんだ?」
 昇月はおれの駆け引きに乗った、というような悪賢い表情を浮かべる。
「雁也は何がほしい?」
「その壁のからくりを教えてほしい」
 おれは中が空洞になっている壁を指差して、きっぱりと言った。
 伯父はにやりと笑った。
「いいとも。中に入っている物もあげよう」
 と笑ったけど、その顔はなんだか不気味で鬼のように見えた。
 鬼なんてお寺の地獄絵図とか、芝居小屋に掲げた看板で役者がかぶっていたお面を見だけなのに。あれは般若のお面だし、せんせいの顔はむしろ大黒様みたいなのに、なんでこういうふうに思うんだろう。
 おれは手に持った煎餅をかじった。醤油の香りが香ばしい。でも、なんとなくあの喜多やの砂糖かけ煎餅のほうがうまい気がした。実際のところ、味に差はあるんだろうか?

 初夏になりいよいよ薬種問屋に行く時、伯父の子分のもう一人に会った。そいつは
「寅五」
 と自分で名乗った。丑造が四十近くて、巳の助が三十過ぎ、とみていたおれはその寅五が伯父の弟子の中で一番若いと思った。おれより、三つ四つぐらいだけ年上だろう。
「わたしはせんせいの弟子のなかで、一番若輩者です。下っ端です」
 そう言った。今日は初めて薬種問屋に奉公に上がる日でおれは巳ノ助の用意した単衣の着物に三尺帯をしていた。煮〆たように汚れた着物はあの家に置いてきた。寅五も同じような質素な着物を着ていた。ふたりとも足袋ははいていない。侍連中だけが足袋をはく。と、いうよりも、足袋をはいているのは侍や金持ちだけだ。みんなが、世の中の人の位置を足袋をはいているかどうかで判断していたと思う。誰かに会って足元を見るのはそのためなんだろう。もっとも、それがわかったのはしばらくたってからだった。
 寅五の背丈はおれより頭ひとつ分くらい高い。寅五、こいつは名前負けしている、とおれは思った。虎よりも猫に似ている。あばたが斑点のようで、不恰好なくらい大きな耳。そしてしなやかな体。足音をたてない歩き方。隙のないそぶり。しかしこの後、名は体を表す、という言葉をおれは思い知ることになるのだった。
「わたしは安井屋さんでもう一年近く奉公しています」
「は」
「あそこは奉公人に良くしてくれますよ」
「へえ」
「盆暮れはもちろん、事情を話せばいつでも休みをくれる」
 安井屋は小石川に近いところに薬草の畑も持っているらしい。おれたちは安井屋に向かいながら、話をしていた。
「そこへ行ったり来たりに時間がかかっても、くどくど言われないので、楽ですよ。みんなついつい寄り道したいですからね。団子やとかね」
「おれは、」
「なんですか」
「なにをすればいいんだ」
「さあ、それはご主人の安井屋省三さまや番頭さんが采配しますので」
「いや、せんせいのほうの用事だ」
「雁也さん。わたしはあなたに行儀作法を教えることも仕事になっています。まず申し上げますが、せんせいについては安井屋では軽々しく口にしませんように」
「しかし、あんたも弟子なんだろう」
「そうです。せんせいは大望をお持ちです。わたしたちはその手伝いをするのです。作戦は秘密にしないと敵に出し抜かれます」
「て、敵?」
「とにかく、言われたとおりにしていればいいんです」
「わかった」
「わかりました、とおっしゃい」
「わ、かりましたです」
「雁也さんはあまりお話をしないほうが賢明かもしれません」
 薬種問屋の安井屋は表の店、裏の作業場、たくさんの薬品の貯蔵庫、そして奥には薬草を天日にほしたり、蒸したりする場所、使用人のすむ長屋などが、川沿いの広い敷地内に配置された立派な屋敷であった。正面の客の出入り口の鴨居には看板とともに龍の浮き彫りの板が飾ってあり、ここが薬種問屋であることは、表の道まで漂ってくる薬の匂いでもわかった。
 主人のいる部屋にはほかにも番頭が二名、手代、帳簿を書く書記がいて、寅五はこの帳場で働いている、と先ほど言っていた。きっと賢いのだろう。
「ご主人、今日からごやっかいになる、わたしの遠縁の者を連れて参りました」
 入り口で膝をついた寅五の後ろでおれも座り頭を下げた。そのくらいの物まねはできた。
「ああ、寅五か」
 机にむかっていた主人の省三は筆を置き、寅五を見ると笑みを浮かべた。四十を少し越えたくらいの男で、肉付きはよく脂っぽい顔をこちらに向けると、
「この子かい。おまえの遠縁の男の子っていうのは」
 とおれの顔を見つめた。瞬間腕に鳥肌がたった。安井屋の主人は蝙蝠のような悪賢い顔をしていた。
「名前はなんていうのかい」
「雁也、です」
「おとっつぁんはいないと聞いたけど」
「そうです。冬に死にました」
 おれは、ここでも縁が幅を利かすのか、とがっくりした。次にはおっかさんは? と聞かれるのだろうか? 俯いていると、安井屋は弾んだ声で言った。
「緊張しているのかい? 可愛いねえ」
 おれは寅五の顔を盗み見た。首をかすかに縦に振っている。どういう意味だろう。
「雁也、お前には畑で薬草を刈ったり、茎や葉を干す仕事をしてもらうよ」
 薬草っていうからには、草なのだろうか? おれは幸助のいつも飲んでいた煎じ薬の匂いを思い出した。おとしはそれを鉄瓶で丁寧に作っては体の弱い幸助に少しずつ飲ませていた。
「へい」
「いい返事だね。しっかり仕事に励みなさい」
 省三はそう言うと名残惜しそうにおれを上から下まで見ていたが、やがて机に目を落とすと書き物を始めた。立ち上がり廊下にでると、寅五が手を引くので、されるがままにおれはついていった。寅五は誰もいない場所に来ると
「ご主人に気に入られてよかったですね」
 と囁く。
「は、い」
「仕事をきちんとすればもっと良くしてもらえます。まあ、それでなくても二、三日中にご主人から、特別なお計らいがあるでしょう」
「なぜ?」
「だってあんた、もって生まれたその顔があるじゃないですか」
 顔? 顔がなんだって? おれは自分の顔について考えたことなどなかった。両手でぱちんと自分の頬をうつ。
「あんた、雁也さんってば、ご主人の大好きな顔ですよ」
「なんだって、おれは!」
「寝間のほうのお呼び出しということです」

 おれはその日は畑で薬になる草を刈りとり、根を掘る作業をした。それは甘草と言う薬草だそうだ。仕事はゆっくりしろ、と言われていたし、外は気が詰まることもないので、そういう作業自体は嫌でなかった。その後、そこは根を取り出し、耕し、また種を蒔く。そんな流れをそこにいる男にぽつぽつと教えてもらった。丑造について畑や庭の草取りをしたりしていたし、鎌や熊手の使い方もわかっていたので、そんなに苦労はしないですみそうでほっとした。仕事も手早くというより、薬を作るためだろう、よく土を落とすこと、余分なものは混ぜ入れないことに注意を払い、速さは二の次で構わないと言われた。
 ほかにも五人の奉公人が同じような仕事をしていたが、体が変に曲がっている子や、耳が聞こえないとしか思えない子もいて、黙々と仕事をしていた。しかしだれもが、のろのろだが確実に薬になる根をより分けているようであった。日が暮れて、笛の合図があり、それぞれ道具を片付けに納屋に入る。おれもみんなについていった。飯炊きの女中がいるらしく、使用人の食事する部屋は、膳をかかえるように食べている者がまばらにいた。飯も汁も、おかわり自由なのか、どの顔もくつろいでいる様子だが、がっついている者はいない。おれは自分からも名乗らなかったが、だれも名を聞いてもこなかった。
「ここはみんながだんまりなんだな」
 寝間も広い板の間に雑魚寝だったが、まともな布団があり、人足の暮らす劣悪な飯場よりはましだろうし、薬種問屋だけあって清潔だったので、これは上等とばかり自分にあてがわれた寝床にも潜りこむ。おれは塾睡した。
 二日目も朝から同じような仕事だった。天気によって作業は変わるらしい。この日おれの扱っている草は大黄というものだった。こいつは腹の薬になるということを覚えた。おれは適当に休みながら作業をした。

 しばらくたった夜のことだ、ああ、思い出すのもおぞましいことだが、主人の省三から、寝所へ来い、と呼び出しがあった。おれは、もちろん色ということ、若い男女が閨で何をするか、とか、男同士でもそういうことがあるとは薄々は知っていたけど、そう、耳年増だったから。で、それは気持ちのいいことだって聞いていたのに、よりによっていくらなんでも、まさか自分が男の慰み者のなるなんて思いもしなかったし、その行為がこんなに嫌なものだとは! おれは自分が甘ちゃんだったってことを、身をもってとことん思い知らされた。
 嫌、という一言では片付けられない、強い者に組しかれる屈辱と、激痛、焼けるような熱さと、とにかく顔だけでなく体中にたくさんの蛾がはりついたような気持ち悪さと、恐れ、と。そんなものが一緒に津波のようにこれでもかこれでもかと襲ってくる。
 自分の頭と体が切り離されて、四方八方に飛び散ってしまうような、突きつけられた、
はりつけにでもされたほうがましとも思える、この地獄におれは歯を食いしばって耐えるしかなかった。やめてくれ、と悲痛な言葉を何度も言っても、省三は喜んでもっと腰を使って、おれを苛む。
「畜生!」
 おれは心で叫んだ。畜生。知っていたんだな。昇月のやろう。知っていたんだな、寅五め。畜生。こんな目にあわせて。自由だよ、とか言って『行くも行かないも好きなように』とか言って、大嘘つきやろう!
 おれは働き蟻よりもっと下等ってことかよ。おれは糞か。いや、糞だって肥やしになる。おれは何だ? おれは何だよ。おれは死ねってことかよ。ダニのようにつぶされて消えろってことかよ。
 いやだ。嫌だ。おれはぜったいに生きてやる。おれは自分の腕を噛んで屈辱に耐えた。
 生きてやる。おれは這い上がってみせる。たとえ鬼を味方につけても。
 そう鬼だ、あの時伯父ににとりついているのを見た。天井に張り付いているのを見た。あいつ、昇月も鬼だ。
「雁也、いい子だねえ」
「!」
 いい子だって? やめろやめろヤメロ、おれはいちどだってそんなふうに、
「おまえが気に入ったからなにかご褒美をあげよう」
 寝床で、おれの背中をなでながら安井屋省三は猫なで声を出した。
「お前の顔も体も、両方とも好みにぴったりだよ」
 おお、何てことだ。気に入られてしまったのか。いっそ、邪険にされたほうがましなのに。しかしまてよ。どうせこの男の稚児になるなら、なにかその代償をもらってもいいのかもな。一方でおれは捨て鉢にもなった。
 褒美......褒美をもらえるのか。どうやら、今晩の仕事はこれで終わりとわかり、余裕のできたおれは頭の中でめまぐるしく考えた。何がいいだろうか。金はあっても邪魔にならないが、それよりも、もっと早くもっと確実にこの最低な奴らと、手を切る方法だ。それは......
 おれはせんせいの話を思い出していた。ここでの仕事というのは、陰間になれということではないはずだ。
「おまえがいやなら、薬草の作業はやめてもいい。内所でわたしの身の回りの世話をするかい。そうだね、そっちのほうが楽だろう」
 ああ、こいつは女房がいないわけだ。こんな男と夫婦になったところで、一日だって耐えられないだろう。おれはきっぱりと言った。
「いえ、その、薬草の仕事はやらせてくれ、いや、薬草の仕事させてください」
 この男と日中も一緒にいるなんかはお断りだ。この変態となんか小半時だっていやだ。同じ空気を吸っているというだけでも虫唾が走る。蝙蝠のような卑屈な顔の男色野郎。
「ほう。じゃなにがいいかい。金かい?」
「金もいりません。仕事もします。そのかわり作業の暇な日や雨の日は屋敷内を自由に歩かせてください。おれ、でなくて、わたしの父親は木舞屋だったのでいろいろ、その、壁とか建具とかに興味があるんです。父親のことを思い出すんです」
 嘘だ。そんなことに興味はない。おれは、家屋敷の中を調べたかった。きっと、巳ノ助や丑造はなにかそういうことを調べろ、と言って来るに違いない。だから、あんなにくまなくあの家を、そう、ひなが一日あの家の中を見せたり、触らせたり、掃除させたり、なぞなぞを仕掛けたりしたんだ。
 そのための修行だったと、今ぴたりと嵌った。
 さっさと調べて、仕事を終え、伯父の手を、あのからみつく糸を振り切り、こんな処とはおさらばだ。こんな男色の変態ともおさらばだ。
「わかった。いいよ、雁也。だけどね、一部屋、だけ誰も入れないところがある。そこは。すぐわかるよ。そこは鍵がかかっている。鍵がかかっているということは、入るのは無理ってことだ。そこ以外はどこだって結構だ。敷地内はどこでも自由に出入りしていいよ」
「鍵のかかっている部屋」
 おれはそれこそ鍵だと直感でぴーんとわかった。だって聞くからに怪しいじゃないか。
「ご主人さま。わかりました」とにっこりと笑うと、省三も嬉しそうに頷いた。
「素直で、本当にかわいい子だね」
「......」
「雁也、でもね、逃げ出すことだけは考えるなよ。もうおまえを離したくないんだ」
 蜂の一刺しのように、省三の言葉がおれを貫いた。逃げ出す? どこからか?
 おとしの処から? あそこは簡単に逃げだせた。あの昇月せんせいからは、おれは逃げ出せるのだろうか? そしてこの、えげつない男色の主人からも?
 おれは省三の生白い裸の胸にも鬼の顔が浮き出るような幻を見た。

「ねえ、雁也さん、なんで、仕事に出ているんですか」
 おれがいつものように、刈り取った薬草を麻布に集めていると、草の育ち具合を記録していたらしい寅五が近寄ってこう言った。
「ご主人さまの愛人なんだから、そんなことしなくたって、お部屋でお菓子でも食べて悠々としていればいいじゃないですか」
 筆をさらさらと書き進めながら、ひそひそ声で言う。おれは字の書ける寅五が少し羨ましいと思った。
 しかし、これが自分のタチなのだ。飽きっぽくて、肝心なことは逃げてしまう。なんとか字は読めるのだ。しかし書くとなると話は違う。紙も筆も墨も、おとしはおれに買ってくれないに違いない、そうひとりで思い込んでいた。事実おとしはおれが邪魔者だっただろうし、そうすると、手習いを学ばせてくれなんて言えるか、と楽なほうへ行ってしまう。
 そんな自分の心のうちを吹っ切るために、おれは言った。
「寅五。お稚児さんって、おれが初めてじゃないんだろ?」
「雁也さん、てば、鋭いから」案の定だ。
 寅五はおれの作業する手に、木綿の手袋を握らせる。
「がさがさだと、ご主人様に嫌われますから。手は大事にしなくては、武器ですから。そういう細かいとこが肝心なのです」
「ふん、そいつ、その前のやつ、今はどうしている?」
 おれは、手なんてどうでもいい、と思いながら先を促した。
「ここで一緒に働いていますよ。ほら、あそこにいる」
 寅五は畑の隅で腰を曲げて働いている、小柄な少年を指差した。思わず大声になる。
「あいつは皮膚病だ。あちこちただれているぞ。あいつが稚児だったの?」
「かつては、です。ご主人が飽きたら、その、皮膚病になった」
 おれはぎくりとした。飽きたら? そんなふうに都合よくというか、皮膚病にたやすくなるものだろか?
「雁也さんも、ああはなりたくないでしょうし、早くなるべく早く、決着つけなくてはね」
「なんだって?」
 寅五はおれの手に付文を握らせた。
「実は、親分じゃなかったせんせいは、この仕事を、自分の天命と考えているのです。さあ、仕事です。雁也さんでなければ出来ない仕事」
「天命」
「そう、雁也さんの助がなければできない仕事」
「わ、わかった」
「雁也さん、慎重にお願いします。この仕事にせんせいは賭けているんです。雁也さんが頼りなんです」
 寅五は手袋と一緒に、とても軽いのに手に余るような重い手紙を置いて行った。
 おれは昼休みに厠でその手紙を広げた。奉公人たちは暫く昼寝をしたりした。おれは独りで読みたかった。どんなことが書いてあるのか、不安と期待の入り混じった気分だった。

  のりこえやすいところ

 おれは、その意味をすぐ理解した。伯父はここに忍び入るつもりなのだ。昇月の謎の部分がこれなのか? 昇月の正体はなんだ? 泥棒か?
 いや、おれは薄々わかっていたと思う。歌人というのは仮のすがたで、本当はもっと暗い策略家、いやそっちが表で、歌人のほうが裏なのかもしれないけど、とにかく、おれは昇月がなにかを企んでいて、そしておれをそこに引き込もうとしているということ、
 お未未に似ている、とか
 好きなようにすればいい、とか言われながら、
 実はおれは、わかっていた。
 あの巳ノ助も、丑造も伯父の子分で、おれを教育というか躾たりするほかにも、元の役割があるんだろう。
 そう考えながら、従うことしかできないおれは省三の屋敷の敷地でぶらぶら散歩するふりをした。伯父の言いつけに心では反発しながら、その命じられたことを調べようとしている情けない自分がいた。とにかく、ここから脱出するためには、伯父と離れるためには、とりあえず、頼まれたことをさっさと片をつければいい、と、結論を出した。
 安井省三の屋敷の表は道に面していて、客や他の問屋が出入りするので間口は大きいが、そこは夜にはぴったりと閉められる。表側は普通の商家と同じに木の戸だが、裏にはもうひとつ、お城のように鉄の扉がある。ふだんは戸袋に収められているので、わかりにくいが、おれは知っている。商売物の薬は値段の高いものが沢山あるからだ。表からは侵入はまず無理だ。うなぎの寝床にもみえる敷地だが、奥に行くと突然に左右に敷地がひろがり、三味線のばちの形ように広くなっている。店だけしか知らないで、奥に行くと、その広さにびっくりするだろう。さらに東のほうは隣の屋敷と高い垣根で隔てられている。一番奥は畑で、その先は大正堀川が流れ、葦の生えた湿地につながり、舟で来ても足場が悪い。西が土塀になっている。しかし土塀のすぐそばまで、蔵や作業所が軒をひろげ、たとえ、塀をのりこえても、すぐ、その立ちはだかる蔵や建物に行く手を阻まれてしまうだろう。その蔵の屋根ときたら信じられないほど勾配がきつかった。侵入するのはどこもかしこも難所である、おれはその後何日も何日も家屋敷の中をぐるぐると散歩した。そして夜は黙って屈辱に耐えていた。
 
「雁也、おまえも明日、歌会へついておいで」
 ある夜のこと安井屋の主人からおれはそう命じられた。
「......歌会?」
 たしか伯父の昇月が『歌会で答えを教えてくれればいい』と言っていたことを思い出した。
「向島のね、冬椿っていう料亭でするんだよ。なに、歌会って言ったって、何も難しいことをするわけじゃない。おまえはわたしの側に座っていればいいんだよ」
「何もしなくていい?」
 じゃあ、おれは何の為に行くんだ?
「ああ、そうだ。あの着物を着ていこう。お前はあれがよく似合う」
 と省三が言っているのはこの前こいつがおれに特別にくれたちゃらちゃらした小姓の着るような絹物だとわかった。薄紫色で女物のように袖が長かった。
「はい」
 きっとその時伯父も来るのだ。そうしたら、伯父にこの前の手紙の返事を伝え、ここからおさらばしよう、と思った。だから愛想よくおれは言った。
「外へいけるので嬉しいです」
「そうか」
 省三はいつもほとんど言葉を発しないおれが感想を表したので、かえって疑ったらしく、
「歌会にくる面々は若くて綺麗な男の子が大好きなんだよ。だからみんなに自慢したいんだ」
 と弁解めいて付けたす。
 なるほどそうなのか。
「だけど逃げるなんて考えるなよ」
 と、言いながらぐっと手首をつかんだ。おれは痛さで顔をしかめた。おもわずきっと省三を睨む。
「その顔がいいんだ。そのきつい顔が」
 と、がぼっと寝巻きを脱がす。ああ、もうこんな地獄にはいたくない。おれは目をぎゅうっと瞑った。いや、何とか知恵を巡らせて、この男を......地獄へ突き落としたい。
 翌日、冬椿と言う料亭に、趣味で歌を詠む五人の男が集まった。医者もいたし、その料亭の亭主、そして油問屋、寺子屋の先生、そして薬種問屋の安井屋という面々だ。それぞれ課題に沿った歌を披露して、誉めあったり、助言しあったりするらしい。歌人の伯父はちょっとした指南をするのか、上座に座っている、おれは安井屋省三の側に人形のように座っていた。初めは「可愛い」とか「いい子が来た」と省三は羨ましがられていたが、驚いたことにこの会の男たちは本当にみんな同じ趣味の持ち主らしい。助べえな目でおれのことを上から下までなめるように見ている。しかしだんだん会が盛り上がってきて、おれからは関心もそれたので、そっと抜け出し廊下の片隅でぼんやりとしていた。その料亭は冬椿という名だけあって、庭のいたるところに椿の木があった。
 昇月が厠に立ったらしく、障子を開け出てきて、おれの側に近寄ってきた。
「どこがいい」
 と通り過ぎざま、さりげなく囁くように問う。
「辰巳の方角、楠のそば」
 調べに調べぬいてだした結果だ。
「万事めでたく、予定通りだな」
 おれは頭にかあっと火がついたようになった。こいつは、この昇月は、薬種問屋の省三が男色なのを知っていて、わざとおれを、おれをその餌食に、よくも、なんてえ、鬼みたいな野郎だ! おれが絶対に気に入られるのを知っていたから、
『きっと歌会につれてくる』
 と言ったのだろう。
 おれは「畜生」と呟いた。畜生。しかしそんなおれの胸の内を見抜いたように
「雁也、これはお未未の敵討ちなんだ。お前がしっかりやるんだ」
 伯父は言い切ると、厠に向かって堂々と歩き出す。
 敵討ち? おふくろの死とこの薬屋がかかわっているというのか? だから、おれに手伝えというのか。おれはおふくろの思い出なんかないのに。昇月はおれのおふくろへの思いを無理やり絞り出せっていうのか。そのためにおれがどんな仕打ちを受けてもいいっていうのか。
 最悪だ。
 いや待てよ、そうでもないかもしれない
 昇月はおれの言葉を信じるのだろう。おれの考えは知らないはずだ。そうだ。間違ったことを教えよう。伯父がわざと罠にはまるような、間違った情報を流そう。
 今はつい本当のことをいってしまったが、よし、次のときは反対のことを言おう。昇月を出し抜いてやる。おお。おれは何だか楽しくなってきた。よし、自分の五感をもっともっと働かせて、もっと探ろう。おれをこけにしたことを思いしらせてやる。おれは俄然やる気になってきた。
 料亭の庭の真っ赤な椿の花がぽとりと落ちち、それが人の顔のように見えた。