六

 

 おれはこいつの息を止めることが出来るのか? 人殺しが出来るのか?

 親父は罪人が公に裁かれるべきと考えたのだろうか。

 仇討ちとか報復とかは、また、余計な怨恨を残すから

 一方月の狼はそんな生ぬるいことをするには、もう悪事が繰り返しなされ過ぎている、天誅を下すべき、と強く思い断固として押し込みを実行しようとしている。

 省三は知ってか知らずか、寅五を人質のようにしている。

 もし、賊が押し入ったとしても、なにか勝算があるのだろうか?

 伯父が親父を殺したのだとしたら、あの切り方は狂気だ。情けも容赦もない、まるで恨みでもあるように?

 椿の花が咲く前に、来るのだろうか。月の狼は……

 そして卯之吉助とその手下三人はこの屋敷の中荒らさず金も程々だけ持ち去り、主人の省三だけを殺す?

 殺してもおふくろは生き返らないのに。

 

「雁也さん。この頃冷たいですね」

 寅五の顔はますます酷くなってきた。今朝、飯を食っていると、寅五が寄って来て、ぼそりとそう言った。しかし、やつは、存外に明るい顔をしている。月の狼が近いうちに来るのを確信しているのだろうか? 椿は今にも咲きそうだ。朝晩の冷たい空気で蕾がほころんできている。

 おれは寅五の顔を見るのが嫌で、この頃ずっと外で作業をしている。もっとも省三が目を離さないので屋敷の敷地内でしか行動できないが、それでも、薬草を裁断したり、葉をむしり取ったりする作業は気を紛らわすことが出来た。朝晩霜が降りるようになってきたので、奉公人たちも暖かい日は屋外に出たが、曇りや風の強い日は、脱穀や、ふるいをかける作業、茎を束ねる作業などを屋内の土間でゆっくりとこなしていた。

 おれの手は早く、あまりに皆と速度が合わないので時が余ることがあり、川の景色を見に行ってみたりもした。川には鮒だの鯉がいるらしく、そんな雑魚を狙った小舟が、水面に影を落としていた。初冬になり、風は冷たくても陽の出る日中は過ごしやすく、いくらか穏やかに送ることができた。あの一件があってから省三はおれに変な薬は試さなくなった。さすがに不老不死は眉唾ものと、思ったのだろうか。あの薬はあとから考えると、サンショウウオの黒焼きの粉末にも似ていた。省三はあの粉末を袂で包んで、願ったのだろうか?

『不老不死の薬にしてください』と。

 自分が不老不死になりたくて、そのかわりにおれで試したのだろうか

 おれは、寅五を見ていられない。このごろ寅五は顔に布を巻いている、血膿が染み出ているし、爛れが酷いからだ。しかし、安井屋が見ている手前塗らないわけにはいかないのだろう、本当に気の毒で、おれはやるせなくなる。

「寅五、本当のこと言えよ! おれが鍵を盗んだって!」

 と川に向かって叫んだ。おれを庇うことなんてないのに。

 小舟が一艘近づいてきた。竿を川に差している者、もうひとりは網を持っている者。

おれは目が良いので、遠くからでもわかった。巳ノ助と丑造だった

「お兄さん、そっちの按配はどうかね」

 丑造が声をかけて来る。その声はなんだかそっけない。

「寅五がえらく辛そうだ。あいつ……あいつが、口を割ったらどうする?」

「いや、絶対に割らないね」

 巳ノ助が勝ち誇ったように言った。無口な巳ノ助にしては珍しく饒舌に、寅五のために続ける。顔は紅潮していた。

「あいつはね、この前、侵入に失敗した呉服問屋に恨みがあるんだ。親分は、ここが終わったら、かならず、そっちも片をつける、と約束してくれたんだ。あいつはそのために生きている。両親の恨みって言っていた。自分の顔がどうなろうと、あいつにとっては、二の次、三の次だ」

「呉服問屋って、ああ、あの」

 真冬の風の強い晩の半鐘の音。

「そうだ、おめえの父親が密告しなけりゃ、上手くいけたのによ」

「……寅五の恨みは」

「そう、あいつはおまえを憎んでる。おまえは親分を憎んでいるんだろう? 親父の仇なんだから」

「巳ノ助! そいつは言っちゃあ不味い」

 丑造が、大きな声で遮った。

「なに丑。こいつは頭が良いんだ。おれたちが月の狼だってことは、すでにご承知だ。あの不浄役人の新発田の処へ行ったってことは、親分も知ってるってことさ」

 新発田の処へいったことがばれている? おれは見張られていたのか? いったいおれは……、

「巳ノ助。雁也は重要な駒だ」

 こま、駒、ってのは、あの鬼も言っていた。

「ああ、そうだった、な」巳ノ助はすでに冷たい顔に戻り「おい坊ず」と、おれに向かって続ける。

「なんだよ」

「襲う日は、霜月の満月の夜だ。寅五にそう言って、あいつを安心させてやれ」

「おれはなにをすればいいんだ」

「省三を寝床に引き止めておけばいいんだよ。お稚児さんにはぴったりの役目じゃないか」

「あ」

「お前の役目はそれだけさ。可愛い、可愛いお小姓の雁也」

「だって、だって、あの、忍び込む場所とか、その、安井屋の弱点とかは?」

「ああ、役にたったよ。おまえは良くやった」

「そんな……」

 ぎいぎいと櫓が音をたてて、舟が遠ざかるのをおれは愕然としてみていた。舟の上機嫌の二人を乗せて、川はそのまま何事もなかったように、流れていく。

おれは、なんだったんだ? いままでのおれの仕事はカスだったのか? おれはつまり当て馬か?。

 鬼と、おれの間のほうがまだ、単純でないだろうか。やつが望むのは人の悪い部分だけだ。

月の狼たちは、おれには本当のことは何も知らせないで、ただ、あたふたさせて、そうして隠密裏に事を運んでいて、そういう悪賢い企てにまんまと利用していただけなのだ。おれは自分が大切なことを任せられているといままでずっと思っていたのに。おれの力が、たいした力でないけれど、合わさって、月の狼が、きっとみんなの協力で、だから上手く運ぶと考えて、一生懸命、それこそ、あの家で修行したときから、頑張っていたのに、そうやって……

 あいつらはおれの思いも行動も全部糞以下にしてしまった。

 おれは決めた。

 だれに従うのでもなく、おれがそうしたいと考えたその方法をとろう。

 そうだそうしよう、もう、だれも信じられない。月の狼の仲間を裏切った親父も、親父を殺しただけでなくおれをこの一味にひきいれた伯父も、悪賢い巳ノ助も、そして、親切なふりをしても情けのない丑造も……

「知っているなら教えてくれればいいじゃないか!」。

 寅五も、そして安井屋省三も憎む。おふくろも、そんな薬なんか飲まない強い心を持てばよかったんだ。

 おれはひとりぼっちだ。おれはひとりぼっち。いや、そんなのはずっとわかっていたことだ。でも一時はだれかに必要とされているのかもしれない、という期待もあったのだ。

伯父とか月の狼とか、安井屋省三にも、もしかすると、幸吉にも、昔はおとしにも。そして親父にも。小者にしたいって思っていたのだから。

でもうそれもおしまいだ。

さあ、こんなことは早く片付けてしまおう。おれには鬼がついている。いつでも呼べば、ここにきてくれる鬼が……

 山茶花の花が咲いた。椿のなかでも一番初めに咲くものだ。

 その夜、おれは安井屋省三のそばで、自分がこの半年の間に学んだことを駆使して、出来るかぎりの媚態を演じていた。昼間、寅五は、時々あらぬほうを見て考え事をしていたし、今晩月の狼がくることはすぐに飲み込めた。

だから、省三には、昼間からおれに気がとられるように、おれは化粧さえした。と、いっても目の上に紅を筆で一筋差し、唇にグミの汁をつけるのだ。その唇からトカゲのようにちろちろと舌を出すと、省三は、仕事中にも関わらず、おれを気にして何度もこちらを見ているのがわかった。あの、不老不死の薬を飲ませて以来、省三はさらにおれに執着しているのだが、このごろはそういった態度を使用人の前で隠しもしなくなった。

 おれはまた、お仕着せの着物に爽やかな匂いのする薄荷の葉をはさんで、布団の下で寝押しをしていた。葉は歩くたびに香り、省三は鼻をひくひくとさせ、おれの目を見た。

 目病み女は色っぽいと言うけれども、時々目じりに唐辛子をぬり、わざと涙目にした。

 おれの演技もずいぶんうまくなったものだと、自分ながら感心した、あとは本番を待つばかり。省三が寝床に来る前に、おれは例の鬼からもらった薬をマムシ酒に溶かした。普段から省三はこのマムシ酒を好む。味は不味いらしいが、それなりに、効能はあるらしい。滋養強壮といったところだろうか。おれはあの赤い丸薬を丁寧に溶かした。味が変にならないことを祈った。

 

 得賂衣事一切我無

得賂衣事一切我無

 

 馬鹿らしいことだろが、あの呪文を唱えていた。親父、守ってくれ。おれは今日、今晩に一世一代の大芝居をして、この穢れた体を解き放つために、おれは安井屋省三を……そして不思議なことにここにきて、おれは親父に願っていた。おやじ、手を貸してくれ。

「雁也」

 襖が開いて省三が着物もそのままで、待ちきれなかったように、もつれる足取りで入ってきた。

「あ、ご主人さま」

「とうとう、お前は体も心もわたしのものになったんだね」

 省三はふとんに座っているおれに抱きつくと、口を吸って来た。

 おれは吐き気がこみ上げたが我慢して、腕を省三の首に巻きつける。

「ねえ、ご主人さま、今日はこのお酒をおれが用意しました」

「マムシ酒かい? おまえもなかなか……もらおうか。そしてたくさん可愛がってあげるよ」

省三は羽織をぬぐと、腰を下ろし、その杯をいっきに飲み干した。

 おれは躍り上がって喜びたい気分だった。これで、省三は! 鬼の薬で!

しかし、やつはそのあと平気な様子で、帯を解き、着物を脱ぎ捨て

「雁也、雁也、」

 とおれを背中から押し倒した。

 畜生! 鬼め、おれを騙したのか? おれは体中から湧き出る怒りを抑えることが出来ないで、歯軋りしながら省三の愛撫に耐えたが、省三はむしろ、おれの体が火照っているだの、燃えているだの、わけもわからないことを呟きつつ、自分は熱中している。おれは、とにもかくにも、あの、鬼の野郎の甘い言葉にまんまと騙されたことが悔しいのと、算段が狂うことで、怒りの後は、絶望に気持ちは代わって言った。

 ことを終えて、一息ついている省三のかたわらで、おれは涙を流しながら、横たわっていた。この涙はもちろん、悔しいからの一言だが、省三はさらに感激して

「雁也、雁也」

 と足を撫でている。

 と、おれの耳に、おれの自慢の耳にひゅっというような口笛が聞こえた。ああ、

『来た』

 と、おれはわかった。

 月の狼だ。来てしまった。

この残虐非道な安井屋を……懲らしめるために。間に合わなかったか。その前に自分の力でこいつをどうにかするつもりだったのに。

襖が音もなく開き、

 黒装束に身を固め、黒い頬かむりをした男たちが、月明かりの庭を背景に堂々と、そして毅然と立っていた。昇月、巳ノ助、丑造、寅五の四人だった。

「月の狼参上」

「な!」

 安井屋は大慌てで、着物を引っつかむとおれの後ろにまるで子どもみたいに隠れた。ぶるぶる震えながら、なんとか襦袢を羽織っている。

「雁也! く、くせものだ。賊か? 賊なのか? おまえ、早く、」

「?」

「その、とにかく使用人を呼んでくれ、早く」

「なに? 使用人たちはあなたの薬で、でくの坊になって、薬づけの古漬け状態だ。火事だろうが、地震だろうが、どんなことがあっても、動きませんよ」

 おれが呆れて言うと

「え、わたしの? 薬?し、知らないぞ」

 おれはさらに問いただした。

「使用人に薬をもったのはご主人じゃないか?」

「そ、それは、たしかに、あのおまえがここに来る前の男には、き、喜市にはあの皮膚のかぶれる薬を渡したたけれども、他の者には、なにも」

 と顔面蒼白になっている。

「と、いうことは。どういうことだ?」

 おれは寅五を見た。

「そうです。おれですよ。奉公人たちを使い物にならなくしたのは」

 寅五は爛れた顔の中の目を怪しく光らせそう言った。おれは、もうなにがなんだかわからなくなった。

「だって、じゃあ、」

「そうです忍びこみやすくするためです。まあ、この人の薬をちょろっとね。使わしてもらいました」

「と、寅五、おまえは、ずっと怪しいと思っていたが、やっぱり」

 省三は寅五を恐怖の目で見つめる。おれは今度は寅五が鬼そのものに見えてきた。

「あ、あの鳥は、あの鶏肉は?」

「ああ、あれはこの人が実験しているのですが、それを汁に入れることを命じた、それはこの人の仕業ですよ、もったいないからって」

 おれは、また自分が嵌められていたことを知る。じゃあ、こいつは、

「いや、雁也さん、大丈夫ですよ。この人がいろいろ薬で試しているのは事実なんですから。あの、この店の一番の看板の常楽散。あれはきのこのスエピタイがはいっている。あれは常習性がありますからね」

「スエピタイ」

 ああ、あの、おふくろに試したという。

「安井屋省三、おれがだれかわかるか」

 伯父の昇月がすっと前に出た。

「え、さ、さあ存じません」

「だろうな」

「お金だったら、いくらでも」

「おれの妹のお未未はおまえが処方した薬で死んだ」

 ああ、とうとう全部明るみになる。

「え、お未未さん、って、いったいどんな方で?」

「お産のあと気鬱になった時にあの薬をあげただろう、あの橋から身を投げた木舞屋の女房だ。あいつの兄だよ」

「ああ、」

 省三は恐怖のあまり布団の上に失禁していた。昇月が腰の刀を抜いたからだ。

「だ、だけど、あのときはまさか、橋から飛び込むとは思わなかった。あのスエピタイで、あれは、とってもいい気分になれる薬だから」

「そうだな。でも飛び込んで死んだ」

「ああ、ごめんなさい。ごめんなさい」

布団に顔を突っ伏して怯える省三の目の前に昇月が立ちはだかる。

 巳ノ助や丑造は寅五の顎の合図で帳場のほうに向かう。二人とも動作がきびきびとしていて、きっと寅五がどこに金や高価なものがあるか教えているのだろう。

 昇月はそんな安井屋に刀をむけていまにも切りかかろうとしている。

 おれは思わず聞いた。

「せんせい。あの楠から上ったのか」

「まさか。そんなことしなくても寅五が内側からあの鉄の扉を開けてくれたよ」

「じゃあ、なぜ、おれをあんな、あんな調べものごっこみたいに、あんな間者の真似をさせて、おれを」

 昇月が安井屋を振り返ってこう言った。

「おお、安井屋。このお稚児さんは、あんたの薬で川に身を投げたお未未の子どもだよ」

「ええっ」

「あんたに復讐するためにここに奉公に上がったのさ」

「か、雁也ほんとうに?」

「それは」

 おれはそうだ、と言いおうか、違う、と言おうか迷った。だって、本当はそうではなくって、ただおれは自分が、一人でないって思った、だから、

 せんせいや月の狼の手伝いをすれば

 ああ、だからってどうなんだろう

「おれは、おれはあんたが嫌いだ」

 おれは省三に言った。そうして昇月を指差して

「あんたも、嫌い。大嫌いだ。せっかく、せっかく、本当の家族に仲間になれるかと思ったのに」

 おれは睨んだ。この一年余りのいろいろな感情がどっと吹き出てきた。

「あんたはおれを利用した」せんせいの黒い着物を掴んで揺する。

「そうしてあんたのほうが、この安井屋よりずっとずっと鬼だ」おれの顔は悔しさとやるせなさで歪み、涙で薄汚れていたと思う。おれは唾を吐いて罵った。

「鬼め、鬼」

「そうだな、雁也。おれも・・・本当は鬼とつるんでいる」

 おれは、その時,呼子笛の音を聞いた。ああ新発田だ。やっと

「あれは! ひよっとして雁也、おまえが裏切ったのか」

 顔をまっ赤にさせたせんせいが獲物に飛び掛る獣のように踏み込むと、おれに切りつけた。おれは、とっさに後ろに飛びのいてかわした。しかし切っ先が眉の上を切り、目の前が血でまっ赤になった。側にあった手ぬぐいを強く締め付け、なんとか目に血が入るのを防ぎ、おれは縁側から逃げようとするせんせいの後を追いかける、不思議と痛みは感じなかった、しかしすでに塀の上も庭にも煌々と火を灯した提灯を持った捕り物衆がいっぱいに取り囲み、

「御用だ、御用だ、」

「おとなしくしろ」

「神妙にしろ」

「動くな」

 などと連呼している。あたり一面は知らない間にたくさんの男たちに取り囲まれていたのだった。

 その後省月は新発田が先頭になった捕り物方の活躍でみるみるうちに取り押さえられた。巳ノ助も丑蔵も寅五も、お縄にかけられた。おれはもうなにもしなくてもよかった。

与力が陣兜、陣羽織の姿で

「月の狼の一味神妙にしろ!」

 と大きく言った時、伯父はふっと息をはいて、そうして言った。

「天誅ならず、か」

 そして

 おおおおおおおんと狼のように遠吠えした。

 縄にかけられた巳ノ吉も丑造もそれに習うように吼えた。

 五十人ぐらいの捕り物衆の連中はその大胆不敵な様子に唖然としている。しかしその中でひとりだけ、寅五はがっくりとうな垂れていた。寅五は赤剥けで、溶けかかった皮膚の顔で無念の涙にくれていた。

 おれは安井屋を振り向いた。安井屋は腹を抱え、海老反りになり、手足を痙攣させ脂汗をかいていた。顔はまっ青だった。

「雁也、お、おまえの大事な、か、顔が傷物に、ああそれより、い、痛いい、苦しい、ああ腹がまるで鉛でも押し込まれ、裂けるようだ。、この痛みはああ、ああつうう」

 おれと安井屋省三は医者に運ばれた。

おれは何とか歩いていったが、省三は親父のように戸板に乗せられ、奉行所の男たちに運ばれた。その中に太助の姿もあった。省三の顔色は真っ黒になり、うんうんと唸り、あのおれの飲ませた薬はやはり毒だったと、おれは、自分の傷の痛さよりも、後ろめたさのようなもので、体全部が重かった。

 省三はそれからもう、二度と起きられなかった。指一本も動かせなかった。医者は汗をかいて、なんとかしようとしたが、首を横に振っておれに言った。

「なにを飲んだんでしょうな。肝の臓が、ひどく腫れて、もう駄目になっていますな。よほどたくさんの薬をいっきに飲んだ人とか、鉛毒のような、そういう症状ですな。」

「なんとか助かりますか?」

 おれは複雑な気持ちで聞いた。

「無理ですな。今の医術ではとうてい無理です」

 省三をとりあえず布団に寝かせ、別の診察室でおれの左目の上の切り傷を手当てしながら、医師はそう言った。

「自分のお薬に溺れたのでしょう。なんにつけても適度ということがあるのですけど。この人は薬を作るのが好きでしたからね。医者連中にもこの人のことは噂の種でしたよ。薬はある意味毒なのですけどね。まあ、このひとが自分の薬で死ぬのなら、本望かもしれませんけどね」

「死ぬのですか」

「ええ、もちろんです。死なない人はいません。皆いつか死にます。あなたもね、それから、大きな声では言えませんが、そこにいる患者さんたちもね」

 医師の家の待合所には朝から沢山の病人が順番を待っていた。老いた者もいるし、幸助のように子どももいる。女も男も神妙にしていた。辛抱強く、医師の診察を待っている

「人はみんな病になります。わたしに出来るのはたかが知れている、人の体は自分で治るようにできていますから、その手助けをするのです。薬はそのひとつの手段でしかない」

「薬はひとつの手段なら……」この省三も

「この安井屋さんは薬好きが高じて、こうなっておしまいになった」

「いえ、そうじゃなくて」

 おれが薬を飲ましたのだから「じゃあ、この、ご主人さまも自然の治せる力で?」

「人の体には限度がある。まあ、もう……それに、気の毒ですが、薬害の苦しみ方といったら尋常でない。八転八倒の苦しみが延々と続くのです。いっそ前後不覚になればいいのに、頭ははっきりしているものだから、壮絶な苦しみです」

「ああ」

 それこそ、鬼からもらったあの薬の効用なのだろう。しかし、それでも

「生き地獄ですよ。死んだほうがまし、と思うでしょう。でも、どんな治療法も、この症状には効きませんね」

 医者はそう言うと、自分の力の無さを嘆き

「考えるにこの人は鬼に魅入られたのでしょうな」

 と結んだ。

 安井屋省三はおれが与えた薬で、楽に死ぬことも出来ず、これからしばらくそう死ぬまで苦しむことになってしまった。

 おれはあの小指ほどの薬を全部使わなかったのだ。いっそ、全部あのマムシ酒に混ぜれば、一息で死ぬことが出来ただろうに、おれのしたことは、一番惨いことなのだろう。

 医者の家の奥で寝かされた安井屋はおれを鬼でも見るように見る。

 その瞳には恐怖がある。そして、おれの目には勝ったという強みがあったかもしれない。

 安井屋省三は、おれが飲ませた毒で、半死状態だし。やつはどうやら、老中が関わる、お上を揺るがすとんでもない悪事に加担していたらしいのだが、仲間は安井屋がそうなって、安心しているのだろう。なにしろ、一言も話せなくなったのだから。安井屋が以前から奉行に目をつけられていたのも事実だった。しかし、自白もままならないので、奉行はそちらに手を伸ばすことは出来なくなってしまった。

 新発田はかなり残念そうにそう説明してくれた。 

 昇月せんせいを要とする月の狼の一味はおれの密告で捕まり、多分、獄門かはりつけになるのだろう。子分の巳ノ助や丑造、寅五のほうは島流しですむだろうか?

 世の中の人々は、月の狼が評判の悪い商人を襲って、まさしく天誅を下していた、と喝采していたけれども、とうとうお裁きを受けることとなった。

 悪は滅びた、わけではなく、おれが裏切ったのは真実だ。裏切った。裏切ったけど、おれが受け継いだ。

 真実はこれだ。おれが、全部片をつけた。

目の上の傷がだいたい治った頃、おれは小出間町の牢屋を訪ねた。それまでは医者の家で泊まりこみ省三の世話もしたりもしたが、あの憎しみのこもった目に耐えられなくなっていた。半ば振り切るようにおれはそこを後にした。もう戻らないつもりだった。

 伯父に聞きたいことがあった。

 牢屋はたくさんの咎人たちでごったがえしていたが、そこにはすでに牢名主になっている伯父の姿があった。月の狼のしたことはそれほど人々の支持があったのである。たぶん、入るやいなや、すぐに英雄として奉り上げられたのだろう。

その大親分は積み重ねられた布団の上で座っていたが髪は乱れ、ひげは伸び、悪人の顔をしていた、しかし目は輝きをなくし、どんよりとして、死人のように、ふらふらしていた。牢番が呼ぶと、気乗りしない様子で格子まで近づいてきた。

おれの前にくるとしゃがれた声で言った、

「雁也。おまえ、何でここへ来た」

「せんせい、もうすぐ裁きがあるんだろう」

「ああ、たぶん死罪だ。もうすぐお未未に会える」

「せんせいはおれに約束したよな」

「なんだ」

「あの家の壁のからくりだ」

「……」

「死ぬ前に教えろよ」

「あれはからくりなんて無い、おまえが睨んだとおり中は空洞になっている。でもその上に板をはめて薄く漆喰いを塗りこんでしまったんだ。あれを開けるなんて無理だ。木槌で壊すしかない。木も叩き割るつもりでな、いっきに崩すしかない」

「そうなのか」

 おれは、なんでそんな面倒臭いことしたんだ、といらついた。その時はそう思った。塗りこめたい物があったのだと、後からわかった。

「中身はお前にあげるよ、坊や」

「悪いな、せんせい。おれが密告したって知らないから、そう言うんだろう?」

「いや、知っているよ。おまえが密かに新発田のところへ行ったことを」

「じゃあ、なんで。みすみす捕まった? 逃げりゃアいいだろうよ」

「ああ、でもな、雁也。鬼との契約ってえのはあれは厄介だ。おれはお未未が殺された時、あんまり辛いんで、よお、そう、そんな時にやっぱり世の中の塵みたいになっている子分を拾って、な。それで、始めは白粉の白牡丹を襲った。あの時も入れ知恵してくれた男がいた。そいつは、自分を鬼と名乗って、その時いっしょに押し入ったんだ」

「鬼は一緒に?」

「そう、そして、次はこうやれ、次はこう、とか全部指示してくれたぜ」

「ああ、そうだったのか」

「人の力ってのは限られているから、悪い道を進むには、そう、鬼と契約しなくちゃ出来ないよ。一回鬼と結託してしまえば、それでおしまいだ。もう人としてはやっていけぬ。安井屋も、り。そしておまえも。おまえのその目の上の傷は、おまえが鬼と手を結んだ印。それがある限り、もう堅気としては生きていきていけないだろうさ」

「あんたの贈り物ってわけか」

「ああ、坊や。あの壁の中、本当に見るのか?」

 坊やぼうやって、こいつの口調でおれは反吐が出そうになった。

「往生際が悪いね。くれるっていたじゃんか」

「そうだな。坊や元気でな」

 伯父はさっと後ろを向くと、囚人たちの間に潜りこみ、もはや、色のない背景だけのように溶け込んでしまった。

あの時に憧れていた、月の狼はいったい何だったんだろう、かっこいい、と思っていたのに。おれだけじゃない。人々は心中喝采していたのに。

 おれはすっきりしない気持ちを抱え、あの綾瀬村にむかった。せんせいの家は変わらずにそこにあった。しかし、あんなにこまめに家の雑事をしていた丑造もいなくなり、鈍色の空の下で、一番初めにここを訪ねた時の、こぎれいな歌人のせんせいの別宅という印象は消え、ただの空き家にしか見えなかった。

 無人の家には何もなくて、それこそ、畳も障子も襖も、空き家荒らしがみんな盗んで持ち去っていたし、あの凝った彫りのある欄間もとり外され、すっからかんと、きれいになっていた。のこっているのは梁と柱、壁、敷居、床だけだった。

 掛け軸も取り外され、天袋も空洞であった。厨にいくと、鍋や食器、桶までない。いったいだれがどういう経路で、ここが空き家だと知ったのだろうか?しかし、ひとつだけ、残っていた。安井屋に行くときにここに残していった、おれの着物。きちんと洗ってあった。

 おれは悲しくなった。

 ここにあるものに未練があったわけではない。なぜだかわからないけれども、涙がとめどなく流れた。溢れる涙をこすると、目の上がまだ痛い。医者は眼の玉が無傷でよかった、とそう言った。おれもそう思う。しかしこの傷のせいで、伯父の言ったようにまともな人生は無理だろう。あの煎餅やにも、この顔で行けるかどうか。

 そうして、おれは、例の壁に近寄った。壁の中までは、もちろん空き巣は気がつかないだろう。

 壁のからくりは無い、仕掛けはないのだ。せんせいのいったとおりにぶち壊そう。おれは納屋に向かい、木槌をもってきた。大きく振りかぶり、槌を打ちつける。壊れろ。壊れてしまえ。ばらばらと壁がおちていく。木も割れて、土埃が舞い上がり、咳がでて慌てて手ぬぐいを口に押さえ、煙が収まるのを待つ。中はたしかに空洞になっていた。取り出す気がないなら、ここに入れていくのが一番確かだ。取り出したいと思わなかったのか、それとも、伯父は取り出したくなかったのか?

 中には手文庫があった。塗り物で蒔絵になっていた。美しい漆細工で月が描いてある。そしてウサギと羊草。伯父の本名の卯之吉とお未未。

 おれはその蓋をあけた。 浦島太郎のように煙がでてくるのでは、とためらった。いっきに年寄りになるのでは? と。それとも鬼と契約した証拠品? 袂か? 思い切ってふたを開けた。

 しかし煙は出ず、一通の手紙があった。そして懐紙に包まれたひと房の髪

 

 かりやどの

 

 おれにあてた手紙だった。何故?

 おれは文をあけて、読んだ。難しい漢字はなかった。伯父も無学だったからだ。内容は思ってもみないものだった。おれは呆然としてその空き家で一夜を過ごした。

親父の言葉がくりかえし頭の中で蘇った。

『お天道さまに恥ずかしいことをしてはいけない』

そうして、おれはそれからいろいろなところへ流れていった。下総村で、橋を架ける工事の人足をしたり、川の堰を作る工事や、秩父の山の麓で養蚕をてつだったり、銅山で働いたり、働くことはきつかったけれども、人付き合いはしなくて良かったし、まあ、なんとか食ってこられた。でも、いつも突然に鬼が現れる。その時の格好はいろいろだけれども、薬売りに化けたり、博労だったり、そして必ずこう言うんだ。

「雁也、もっと楽な処へいこう。ここはきつい。そうじゃないかい?」

「へえ、あんたはおれが苦しんだりするのが嬉しいんじゃないのかい?」

 そんなことが繰り返され、何年かたったある日こんな提案があった。

「雁也、今度こそ行こう。おまえにぴったりの仕事がある」

「へええ、あんたの言うことは信用できないね。おれが苦しんでいるのがあんた達鬼の一族の喜びだろう?」

「いいや、お前は特別なんだ。もうすでに役が決まっているし。今度のところは今までのような仕事じゃない。戦だ。おまえにぴったりだろう? おまえ傭兵になれ」

「傭兵・・・」

 それから何度、戦に狩り出され、この手を血で汚しただろう?おれの評判はどんどん伝わっていったらしい。おれの加わった軍はことごとく勝利を収めたから。

 ある日斉藤無山という阿波の武将からおれを乞う知らせが舞い込み、そこへ行った。例によって鬼の息のかかった者だったが、居心地は悪くなかった。体もきつくなかったし、それなりに報酬もあった。その武将のもとで、何年働いただろうか? 城の中の不浄なことは全部おれがして……糞以下のおれに分相応の仕事ばかりだった。

そしてあれは、今思うとまるで運命で定められていたような気がする。

 あの正夢島に行ったのだ。そこで聖と櫻王、由羅と会った。・・・あの小さな島であの時、

「ここで終わりじゃない、ここから始まる」そう聖が言った。

 今こそ、おれは鬼と手を切り、自由に漕ぎ出せる、おれは歓喜したのも事実だ。

 おれに船頭を頼みたい、という聖の言葉は有無を言わせない響きがあり、おれはしぶしぶ三人に従い、ここに至っている。この広大な海の上で。

 

「それで、その伯父さんの手紙には何が書いてあったの?」

 聖は辛抱強くおれの生い立ちというかここに来るまでのいろいろを聞いていたが、そこで、核心をついて聞いてきた。ほんとうにこの姫は鋭いから困る。

だって、それが・・・まあ、いいか

「せんせいとお未未は、本当の兄弟でなかったんだとさ。親どうしが連れ子をして、まあ、義兄妹というか、幼馴染のようなもので、それで、下野から一緒に奉公にきたのは事実で」

「せんせいとお未未さんは好きあっていたの?」

「ああ。おれの本当の父親はせんせいだと、そう書いてあった。親父の辰也は知らないで、お未未に惚れて、おふくろもそっちのほうがいいと思ったのかどうかわからないけど。祝言をあげ、月足らずで立派なおれが生まれた」

「辰也さん知っていたのかな?」

「どうかな?ま、おふくろが身を投げたのは、薬のせいだけじゃなかったのかもな」

「おかあさん、辛かったんだろうね。いろいろあったんだと思うよ。気鬱の病にもなるよね。騙していたわけだし」

「・・・」

「伯父さんも、辰也さんに、複雑な思いを抱いていたんだろうし、ああ、なんでこんはふうに人はすれ違っちゃうのかな?」

 そう、だから、深いとことで絡み合った思いは、いろいろな形に歪められ・・・

 鬼の言葉が蘇る。それぞれの違った真実。真実はひとつではない。

この海に沢山の島があるように。孤高の真実。誰にも認められないままの真実。

「ああ、聖、おれ、さ、あの」

「とにかくさ、みんな過去はいろいろあったんだけど、ここでこうしていっしょの舟に乗っている。それでいいんじゃないの?雁也。」

 ああ、そうだね。おれはそう思って舟の中を見た。櫻王はでかい体をもてあますように転がっていた。舟に体があたるから、窮屈そうだった。由羅は櫻王の着物の端っこを濁って爆睡していた。

おれはとりあえず独りじゃない。それにこの聖っていう姫といれば、鬼にはもう、あの袂で絡めとられることもないと確信していた。

 その思った。今この舟の上で。

「いいな、雁也は性格があって」

 そう話す聖はやっぱり凛として綺麗で、おれは笑った。

「ここで終わりじゃない。ここから始まる」