五

 

 そう、だから、ここだ。ここになにか隠されている筈だ。

 おれは堤の側に辿りつき、周りに人がいないのを確かめ、祠の錠前に鍵を差し込んだ。案の定、錆びていることもなく鍵はかちっと開いた。度々開けているということだ。そして、中にあるヒツを外に取り出す。地面に置いておれは両膝をつき慎重に鍵を回した。ヒツの錠前もあっけなくもうひとつの小さいほうの鍵で開いた。おれは中を覗いて愕然とした。ヒツの中に想像していたような、書付みたいな物は無かった。

 省三の日記もあやしい薬の粉末も無かった。

 ただ、着物の片袖だけ。ひきちぎられた袖だ。

 それも男の着物。女物だったら、おふくろとの関連も考えられたけど。それはほつれたのか、ちぎったのか。ただのぼろ布だ。それにしても黴臭い。

こんなところに、着物の袖だけ。

 ああ!

 これでは、証拠にも、弱点にもならない!

 おれは慌てた。こいつが弱みになるわけがない! こんなぼろ布がどうだっていうんだ。

 おれは溜息を吐くと再び鍵を閉めた。そうして、祠の扉も閉じて鍵をする。

 おれはどうしようかと思案した。このままではどうにもならない。昇月せんせいに、弱みは見つかりませんでした、と言えばこんどは違う指示があるのだろうか。そして、奉公をやめて戻ることが出来るのだろうか? それにしても、ここから無事で出られるとは思えない。

 それにその前に、あのしつこくて、えげつない省三が、おれを飽きて、あるいはおれが、こんなことを調べているのを嗅ぎつけ、おれに薬を盛るに違いない、

 それは、おれをあの男のように皮膚病にするのか、それとも、橋から身を投げたお未未のように、高いところから笑いながら飛び降りる薬を飲ませるのだろうか?

「ふふふふ、なんて楽しい、なんて楽しい」

 そんなふうに? それとも、

「ああ、おれは飛べる、飛べる」ってな様子で?

 おれは鍵をもって帳場へすごすごと行った。

 もう番頭は腹下りで出るものが無くなったのか、済ました顔で書き物をしていた。

 おれの生半可な知識じゃあ、腹下しの量が少なかったのだろうと思う。しょうがない。今夜省三は泊まりだし、夜にでもここへ忍び込んで、鍵を元のところに返そう。そう思って、おれは一旦帳場を出た。納戸によって、とりあえず鍵をそこの棚の片隅に置く。今日はここに入る者はいない筈だ。おれは、思案するために、再び庭に出て木に登った。昇月に知らせた楠木である。塀沿いにある大きな木で、四方に茂っているが雷に打たれたのか二股になっていて、そのくぼんだ幹に腰をおろすと、屋敷内のこともわかるし、遠く畑で作業している、奉公人の姿がのろのろと動いているのがわかった、見えはしないが塀の外の物音も聞こえる。

 小半時ぐらいうとうとしたらしい。あたりは薄暗くなっていた。

 突然、帳場のほうから慌しい雰囲気が伝わってきた。人々の動きが活気が出ているというかあたふたしているような雰囲気だ。

おれは何事かと、耳をすます。省三の声がする。やつは帰ってきたのか? 今日は横浜に泊まるのではなかったのか? だれかつげ口をしたのか、怪しい者がいると?

 いや、そんなことは早馬でも無理だ。

 ひょっとして、安井屋省三は、おれに嘘を吹き込んでいたのか。おれを出し抜いたのか。 だけど、おれはもうどうでもよかった。知られたならそれでいい。その結果なにかされても仕方ない。おれはかなり考え抜いて行動したのだし。

誰だって力が及ばないときがある。そういう失敗が世の常なんじゃないのか。人は失敗しながら生きていく。そうだろう親父。ふいに親父のことが頭に浮ぶ。

 親父、本当はどうだったんだ? だれに殺られたんだ。おれは今になって深刻に思う。

 親父はしくじったのか?

 事故だったのか?

 それとも、お奉行に密告したのが親父だったら?

 そんなことを考えていたが、そのうち屋敷内はとくに目立った動きはなくなり静かになる。どうやら通いの番頭や手代は早仕舞いして帰ったらしい。それにおれを探す声も無かった。おれはまだ薄暗いが夕刻から夜になりつつあったので、いつものように奉公人が食事する部屋に行き、そこで、飯を食べることにした。空腹だったことを思い出したのだ。

しかしその割に飯は喉につかえてあまり食べられなかった。この頃、どの食べ物にも薬が仕込まれているような気になる。奉公人たちは、相変わらず従順で、無駄口も叩かず、静かに食べると寝所にいってごろごろと横になってしまった。

 この頃は暑い日が続くので、屋外の風呂小屋にいき、五右衛門風呂に入ることを許されているが、その風呂でさえ薬草が浮いていて薬臭い。もっとも神経痛に効くといわれると、なるほど、と思ってしまうような匂いでもあったが。風呂は三日に一度点てられ、順番に入って、混乱はなかった。それに無気力な奉公人たちは風呂にさえ入る気にならないようであった。やつらは汗臭いというより、寝たきりの年寄りのような屍臭がした。おれや寅五はまめに入った口なので、風呂場の洗い場で寅五の姿を探した。しかし、寅五は来なかった。珍しいことだった。やつは癇性といってもいいくらいきれい好きだったから。

 その晩は予想に反して、安井屋省三からの呼び出しが無かった。遠出したので疲れたんだろう、と考えていたところで、はっとあの鍵を元に戻していないことを思い出した。

 祠の中身のことで、あまりに考えすぎてしまったのだ。

省三は夕刻に帰って来たのだから、気づくはずはない、と考えつつ少し不安になる。そうなると寝てもいられず、むっくりと起きた。

暗くても見える目を使い、抜き足さしあしで、帳場に行こうとすると、省三の部屋から、かすかに光が洩れている。音を立てないように、正座をして、着物の膝で床を擦りにじるように近づくと、省三の激した声がした。

 おれはそおおおっと、襖に耳をつけた。

「寅五、白状するんだ。百薬箱に入っていた鍵はおまえが盗ったのかい?」

「え、あいえ」 

襖の隙間からをそっと覗くと、寅五は畳みの上に涎を垂らし、横向きでこちらを向いて体は海老のように丸め、ぐったりとしていた。

「痺れ薬が効いて来ただろう? 隠そうとしても無駄だよ」

 おれは愕然とした。鍵をとったのは寅五だと疑われているらしい。おまけに、省三は寅五に痺れ薬を飲ましたのか? なんてことだ。

おれはとっさに襖に手をかけ開けようとした。しかし

「はい、わ、わたしです」

 寅五の声でおれは硬直した。寅五、なんでおれを庇う。

「やっぱりね。なぜだ、なんで盗った。これがわたしの大切なものと知っているんだろう?」

「そ、それは」

「どこの鍵か知っているのかい?」

「いいえ存じません」

「じゃあ、なんで盗った。正直に言いなさい。場合によっては、許してあげるよ」

「ご、ご主人が、雁也さんばっかり可愛がるので、その、いたずらをして雁也さんのせいにして、そうすれば叱って下さるかと。わたしのことも見て下さるかと」

「妬きもちかい? そうか、だったら話がわかる。雁也に嫉妬して嵌めようとしたんだね」

「そ、です」

「鍵はどこへやった」

「か、川に投げました」

「ほう、そうか。それなら、他人の手に渡らないなら…・…まあ、可愛そうなおまえに情けをかけてあげよう」

「どいいうことですか」

「おまえにはいい薬をあげるよ。その薬を塗れば、その醜いあばたもきれいな餅肌になるだろうよ」

「本当れすか? そしたら、ご主人はこっちを振り向いてくれる?」

「もちろんだよ」

「ありがとございます」

 呂律もどんどん回らなくなっている。

「ただし、その薬はすぐは無理だ。明日までに用意するから、待っていなさい」

「ありがとござい、ます」

 寅五は何とかこの危機を乗り切ったようだ。おれは安堵の息をつく。ここでばれないでよかった。しかし、寅五は痺れ薬のせいでまだ体は動かせないらしく、ぐずぐずと畳の上でのたくるように動いている。

「おお、まるで、芋虫みたいだねえ、おお、おぞましい。なんて醜いんだ」

 省三は自分の口を袖でおさえ、嫌悪感をあらわにすると、言い捨てた。

「あと半刻くらいしたら戻ってくるから、お前、ぶざまな姿でまだここに居るなんてしないでおくれよ。わたしは醜いものは大嫌いなんだから」

 そして、ぱっと立ち、着物の裾をはらうと立ち上がった。

おれはさっと、陰に飛び退き、襖に沿うように立ち、気配を殺した。省三は別の襖を開け廊下に出る、真っ直ぐに庭に向かうのか、戸が開かれた廊下から降りたようだ。おれは足音を立てずに離れて後をついていった。

 やつが向かうのはあの祠だとおれは確信した。中は無事か確認したいのだろう。あれはやはり大切なものらしい。それにしても、省三は暗がりでも提灯を下げず、さっさと歩いて行く。でこぼこに足を取られることもなく、歩く姿はまるで、宙を浮いているようであった。まるで何かにとり付かれている、というか足が地に着かない、というか。

 おれの思惑どおりに祠につくと、省三は鍵を袂から取り出した。

「鍵はひとつではないのか」

 おれは息をのんだ。

省三は祠の扉をあけ、中の櫃にむかって膝まずき頭を下げ手を合わせている。

「得賂衣事一切我無 得賂衣一切我無」

 と、なんだかわからないが呪文だかお経のようなものを唱え始めた。

「地獄より召還した鬼よ、わが願いお聞き下さい。契約によりここにある薬が望んだように変化するようにお導き下さい。この薬を塗るものには皮膚が爛れ、赤剥けになり、さらにどろどろに溶け、早々に死ぬように、お導きください。憎しみの心、妬みの心、嘲る心があなたに通じますよう、鬼よ、どうかせつにせつにお導きください」

と呟くように一心に祈っている。さらに店で売っている桃の葉という汗疹に効く薬を袂からだすと、恭しく頭のうえに掲げ、一旦そのヒツの前に置き、さらにヒツの鍵をかちりと開け、あのかび臭い着物の袂をとりだすと、その「ももの葉」をくるくると包んだ。おれはじっと目をこらしてその一部始終を見逃さないようにしていた。

 鬼と言っていた。あの袂は鬼に関係しているのか。あの安井屋省三の月明かりにてらされた影には、しっかり角が生えているように見える。あいつは鬼なのか、それとも鬼の子分なのか?

 でも、あの汗疹の薬はきっと、あの、死んだ喜市に塗った薬のように、皮膚が爛れていくのだろう。ああ、寅五、寅五の顔が、そしてやがて、目も鼻も溶けてしまい、寅五は死んでしまう。逃げろ、寅五! 早くこの屋敷から! おれはおぞましい光景をみながら一心に祈った。

 ことが済んだのか、省三はヒツに鍵をかけ祠の扉を閉じ、しっかりと錠前をはめた。

 そうして、屋敷に向かって歩き出した。独り言を呟いているのが聞こえる。月明かりに照らされたその顔に爛々と光る怪しい目がふたつ、また唇はひくひくと、不気味な笑みを浮かべている。

「これで寅五は」

「あいつは、安井屋に入った時から、怪しいと思っていた。これで気がかりなものは無くなる」

「そうだ、明日は雁也に、あの弟とやらの薬を、運ばせよう」

「雁也の弟で効果が試せれば、いよいよ、老中様の……密かな願いが叶う……あの薬で、この世の中を変える事が……おお、わたしは、なんて大きな力を持ってしまったのだろう?ふふふふ……自分のこの二本の腕で、すべての人の人生を左右することが出来るなんて」

「あの、鬼に出会った時から、わたしは大きな力に守られ」

「こんなにも、思い通りに……」

 そのせつな川から、風が突然吹いて、木を揺らした。と、思う間もなく昼間のようにぱっと明るく光る。雷だ。遠くから、ごろごろという音が聞こえる。しかしおれはそんな雷より、この薬種問屋の主人が恐ろしくて立ち竦んでいた。

 やつはいったい何者だ?

まるで、鬼、いや、やつは鬼に出会った、と言っていたけれど、やつこそ鬼なんじゃないのか? まるで、自分でも、そう言っていたけど、その二本の腕で、

沢山の人をじぶじぶと苦しめる。それも、情け容赦なく真綿で首を絞めるように……

だいたい、あのかび臭い袂でくるみ呪文をとなえるだけで、薬が毒にかわるってえのは、鬼の力そのものでないのか。

 ああ、おれは、もう駄目だ。恐ろしい。とんだ男に関わりあってしまった。こんな呪いの詰まった屋敷の……

 稲光の中おれはじっと立っていた。足がすくんでいた。

 おれはこんな省三をなんとか、そう、こんな餓鬼でもおれの力が及ぶならやっつけたい。伯父は? 伯父もそうなのだろう。しかし昇月に勝算はあるのだろうか? たしかに、月の狼は今まで、成功してきた。唯あの呉服問屋は、未遂だったけど。

でもこの、安井屋は、手ごわい男というより、人というものではないような気がしている。人を超えているというか、鬼そのもの、というか。その鬼が問題だ。契約、と言っていた。鬼とどんな契約をしたのだろうか? おれはどうすればいいんだ?

おれはその夜、主人からの誘いが無いのだから、のびのび眠れるはずなのに、次々と起こるこの事態を持て余して、寝床で震えながら悶々と考えていた。

 そして次の日、弟の薬を持っていきなさい、と言いつけられ、おれは帳場で、緊張して座っていた。安井屋省三は紙の包みを差し出して言った。

「さあ、雁也、坊ちゃんの薬だ。これを持って行きなさい。ついでにおっかさんに甘えておいで。久しぶりの里帰りだ。話すこともたんとあるだろう」

「はい」

 そうか、こいつはおれを試しているんだな。おとしに会っておれが里心ついたと思っているのか? それとも……帰ってこないということも考えているのか?

「わかりました。帰りは夜になるかもしれません」

 主人がきっと目を光らす。どんな獲物も逃がさない、毒を持ったさそりの一刺しだ。

「いいとも。いいとも、わたしはゆっくりしておいで、って言ったんだよ。それよりね、」

 と、おれを手招きして、顔を近くに寄せ、寅五のほうを見て囁いた。朝から泥鰌でも食べたのか安井屋省三は生臭かった。おれは吐き気がした。

「寅五の顔どう思う?」

 寅五の顔は、あばたが消えるどころか皮膚がところどころ赤かった。無理やりというか、仕方なく例の薬を自分で塗ったのだろうか? 薬が浸みるのか目をしぱしぱさせている。

「あ、あの」

 おれは口ごもる。なんと言ったらいいのだろう? おれが見ていたことを知っているのか。この男は何を考えているのか?

「いいかい。雁也。夜でもいいからちゃんと帰って来ないと、あの寅五がどうなっても知らないよ」

 おれが愕然とする目の前で、省三は立ち上がると、わざとらしく寅五の側に行き

「寅五、顔になにをつけたの? おまえ漆の生えている山にいつの間に行ったのかい。かぶれているじゃないか」

 と顔をしかめて、さも同情するように言っている。おれは

「行ってまいります」

 と飛び出したものの、膝ががくがくしていた。主人はおれと寅五の関係を知っている?おれは、必死で歩きながら、頭を巡らせていた。

 知っている。

 じゃなければあんなこと言わないんじゃないか? どのくらい知っているんだろう?

 考えことをしているうちに一刻ほど歩き、ふるさと、というには近すぎるかつての町に着いた。自分の家は以前と違かった。どこがどうというのではなく、なんとなく突っぱねられているような感じがする。ただ、濡れ縁に朝顔の鉢植えがおいてあるだけなのに、そこはやはり自分の家ではない、と妙に納得した。おれが引き戸をあけると、真っ先に目で探したのは、親父の位牌だった。家をでてから、一度も手も合わさないのが後ろめたいのかもしれない。親父が死んでいろいろあって、今になっても親父とはたいして話していなかったことを再び思い出す。肝心なことを話していない。苦い汁を飲んだ気になる。親父はなんで殺されたのか? そして、幸助に、このままこの薬を飲ませ続けてもいいのか?なあ、どうなんだよ、親父。

「おとし」

 おとしは仕立物していた手を休め、こっちを見た。

「ああ、雁也。来ていたのかい。ちっとも気がつかなかった」

「おとし、薬を持って来たのだけれども」

「ああ、それはありがたいね」

 おとしは胸の前で一瞬手をあわせた。もちろん手を合わせた相手はおれじゃない。

「安井屋のご主人様は神様のようなお方だ。見ておくれ、幸助の様子を」

 おれがいた頃幸助はいつもごろごろとだるそうにしていたが、今日は起きて機嫌よく木っ端で作った積み木で遊んでいる。

「大工の富さんが、いい具合にやすりをかけてくれたから、幸助がほおずりしようが、なめようが大丈夫さ。あの安井屋の旦那のおかげで、こんなに元気になったんだよ」

「その、おとし、おれは」

「お前の給金から、高い額をさっ引かれているのかい?」

「いや、そうじゃなくて」

「前と同じ薬をまた持って来てくれたんだろう?」

 おとしの目がおれの顔から手にある薬の紙包みに移る。

ああ、なんと説明すればいいんだ。幸助が心配だからもう飲ませるのは止めにしないかと? それは鬼の陰謀なんだ、とか? 安井屋は神様なんかじゃなくて、むしろ、鬼か般若だとか? よお、どう説明すればいいんだ?

「おとし、薬を幸助に飲ませるのは止めたほうがいい」

「ああ、まったく」

 おとしは立ち上がると、おれの目の前に勢いよく来た。

「雁也、またいつものそれか。いつもお前はそれだ。知ったたかぶりをして、わざと、あたしが困るようなことをする」

「いや、違うんだ。そうじゃない」

「そんない幸助が憎いか。あたしが憎いのか」

 おとしは唾を飛ばして激怒した。そばにあった湯呑をなげつける。

 それが、省三のやり口なのだ。最初は効き目があるようにみえても、飲み続けるうちに……どんどん、おふくろみたいに、その薬に犯されていって、……最後はどうなる?

 気がふれるんだ。自分が自分じゃなくなる。川に飛び込みたくなる。

「さ、出ていっておくれ」

 おとしはおれの手から、薬のはいっている紙包みをわしのように掴み取った。

「もう金輪際来なくていい。あたしが貰いに行くから。あのご主人は優しいお人だから」

おとしはおれの腕を掴むと、ものすごい力で外に引っぱり出した。

「もう二度とここに来ないでおくれ。このうちは、木舞屋の辰也という男と、その女房のあたしと、その子の幸助の家なんだ! お前はもともと、赤の他人じゃないか」

 戸がばちんと閉められた。

 おれは薬の包みを奪われたとき手を引っ掻かれたらしい。ひりひりした。血が滲み出ている。

 赤の他人。その通りだ。おれはこことは関係ない。だから幸助がどうなろうと。

 しかし、幸助とはちっとばかり同じ血が流れているんだ。

 同じ父親の血だ。だから心配したっていいだろう?

ああ、そうか、昇月先生も、だから、お未未、お未未って。

兄妹だから? 妹が不憫だったのだろう。亡くなったからさらに情が深いのか。

 おれはとぼとぼと歩き出す。幸助に薬を飲ますことを止めさせるには、おれの言葉ではかえって駄目だ。どうしようか。

やっぱり、安井屋の悪事を止めさせるには、せんせいに頼る他ないのか?

 月の狼を……

『せんせいの大望を助ける』寅五の言葉。寅五は心底昇月を尊敬しているのだろう。だから、逃げ出さない。

 あんな仕打ちにも耐えている。根性のあるやつだ。

「辰也は根性がある」そういったのは新発田だ。

親父は新発田を尊敬していた……。

おれは思いきって新発田を訪ねることにした。親父達がいつもつるんでいた自身番には、同心もたびたび立ち寄る。小者たちも、以前は親父もだが、木舞屋の仕事が終わると、ここで、何か自分の出来ることはないか、と岡っ引きや同心の指示を待ったり、それでなくても町には揉め事は度々あり、番屋に日常茶飯事に持ち込まれていた。親父はそれなりに自分の役目をしていた。

今は誇りを持ってそれをはっきりということが出来る。

親父のことが何かわかるのではないかと、番屋の戸をあけると、そこには連れ立って小者の仕事をしていた太助という、年は二十五、六の若い男がいた。たしか魚のぼてふりのかたわら小者の仕事を任されているらしい。おれは、何度か太助と話したことがあった。そして、この太助は親父とともにあの日、張り込みに立っていたのだ。

「お、雁也じゃないか。おめえ、……久しぶりじゃないか」

「……」

「相変わらずか? その仏頂面はよ。おとしさんのいうには薬問屋に奉公しているってえ話だが、そんなしけた面してよお」

 おれはなんとも歯切れの悪い顔をしていたと思う。

「いや、その、新発田さんは」

「旦那か。旦那に用事か?」

 太助の顔が真面目になった。

「いや、ちょっと、おれ、あのいや、その親父が死んだときのことを詳しく聞こうと思って。あの時は、それどころじゃなくて」

「辰也か」

「そう、その斬られるまえ」

「ああ、それだったらな。おれだってちっとばかり話せる」

「……」

 太助は木でできた簡素な椅子をおれにあごで勧め、土瓶から麦湯をついで、湯のみをひとつ差し出す。自分も椅子にどっかと座る。おれはおとしのところから懸命に歩いてきたし、喉が渇いていたので、麦湯を一気に飲んだ。

「おれもよ、あん時のことは今も思い返すんだ。なんだろうな。その、まだ、納得できないっていうか」

「?」

「あの時辰也が、その話を仕入れてきた。呉服問屋の鶴亀屋に月の狼が押し入るって、そういうことだった。日にちまではっきり、だ。奉行は躍起したさ。なにしろ、月の狼の素性は全くわからないんだから。神出鬼没ってのが決まり文句みたいにね。それで、おまえも知っての通りあの日張り込んでいた。辰也は凄く緊張している様子だった。合戦前の武士みたいな感じだな。小便がやたら出て、でも、反面おどおどしていた。あの時おれに言ったんだ『もし、おれになにかあったら、雁也を小者にしてくれ、その手助けをしてくれってね』」

「おれを?」

「そう辰也がおまえのことをそんなふうに頼むのは初めてだったな」

「……」

「それまではおまえのことはもちろん、女房のことも、幸助のことも口にしなかった。まるで独り者の男でも通用したな」

「そうなんだ」

「ただ、この世の中の闇をなんとかしたいって、自分にできるのは限られている。自分のちっぽけな人生で、もう、どうにもならないことのほうが多い。でも、なんとかしなくてはいけないことがある、ってこう言っていたかな、もっとも酒を呑んだ時だけど」

「なんとかってなんだよ」

 おれはむかついた。

「さあ、知らねえよ」

「それで殺されて、それでいいのかよ」

「さあな、でもやつは自分から、その切った男に近づいていったのさ。まるで吸い寄せられるみたいに」

「あっちがいきなりじゃないのか?」

「いや、自分から当たって言った、その、怪しいやつらの真ん中の親分みたいなやつに」

「おやじなんか言っていたのか」

「なんか言っていたな、耳がどうのこうの、って。そう、でもおれははっきりとは聞こえなかった。おれのまん前に人相の悪い蛇みたいのがいたし、おれも身動き出来なかった」

 耳? 未未か?

「あ」

 おれはびくっと顔をあげた。たてつけの悪い戸が軋む音をあげて開いて、そこに新発田が入って来たのだ。急に暗い中に入り確かめるように番屋の中を見回し、おれに目を留めたのがわかった。

「お」

 色黒で精悍な顔の口元が緩められた。

「あ、あの」

「おまえ、辰也の息子だな」

「は、はい」

 雁也というんですだんな、と太助が言うと、のっそりと近づいてきた。じっと目を離さず探る様にしている。おれは薬問屋に奉公に上ってから、体を動かすことも多く、それなりに肉もついていた。おれの体つきを吟味しているような眼差しだった。

「ふうん、おまえ薬種問屋の安井屋に行っているんだって?」

「はい」

「そいつは、誰の口利きなんだ」

 新発田の口調は有無を言わさない強さがあった。

「それは伯父、です」

「なんて名だ」

「歌人の昇月せんせい、あ、本当の名は卯之吉だったか」

「雁也」

「はい」

「親父の仇を討ちたいのなら、そいつを探ってくれないか。歌人の昇月が月の狼かどうか調べてくれ。おい太助いくぞ」

 その後、新発田はおれの返事も待たず、太助と出て行った。太助は気になるそぶりで一度だけ後ろを振り返った。おれは番屋で一人になった。

 おれは、自分がどんどん深みに落ちていくような気分になっていた。

 水は体の自由を奪う。そのうちおれは息も出来なくなる。喉の奥から空気をもとめる悲鳴。怖い。今まで何のために生きてきたんだろう? 昔はあの家で、四人家族がばらばらでも、今よりは怖くなかった。今は拠り所の無い、だれかにすがりつきたい気持ちで一杯だ。

 おれはあの後、家を出て浮き草どころか流されっぱなしの木片だ。

 誰かおれを助けてくれ。おれはどうすればいいんだ。寅五を見捨てて、このまま安井屋からとんずらしたらいいのか?

 それとも、こういう時に鬼に願えば、特別の力を分けてくれるのだろうか? 誰よりも邪悪な、人を陥れる力。でもそんな都合よくそんな力を得ることができるのか。そもそもおれはどうしたいのだろう?

昇月せんせいはおふくろの仇の安井屋を探れ、と言い、新発田は昇月せんせいを探れと言う。

 安井屋は、鬼と関わっているし、非道、残酷なことこの上ない。おとしは、もっと薬を、といい、寅五は仲間だし、おれを庇って危機状態だ。

 おやじの小者仲間の太助は月の狼と親父が繋がっていたようなことも言うし、

 おやじはお天道さまに顔向け出来ないことをするな、と言う。

 おれはおとしのへそくりの借りがある、せんせいにも、いろいろと借りがある。寅五にも、借りがある、親父には……親父はおれが小者になることを望んでいたのか?

 おれが早い刻に安井屋に帰ると、主人は意外そうな顔をした。戻ってこないことも想像していたのかもしれない。おれは、帳場の省三の前できちんと正座をして頭を下げ

「ご主人さま、高価なお薬、ありがとうございました。幸助はとっても元気でした」

 と言った。なぜなら、幸助にあたえた薬が本当は良薬かもしれなかったからだ。試している薬という証拠はないのだ。

「ほう」

 と省三は身を乗り出してきた

「どうんなふうに?」

「はい。幸助はいつもごろごろと横になることが多かったんですが、今日は起き上っていました」

「ふんふん、あの薬が心の臓を活発にさせているんだな。心の臓と腎は深い関わりがある。これはいい兆候だ。良いな!」

「ご主人さま」おれは省三の顔をじっと見て尋ねた。

「幸助は治るんでしょうか」

 それは心からの質問だった。そしてそれに対して安井屋は嘘を言うか。それが他人にわかるのか?

「さあな」

「でもあの薬が効いて、そのうちに……」

「人というのは不完全な生き物だ。あまりに進化をすることにより複雑な頭の構造、複雑な仕組み、複雑な生理を取得してしまった。それに一番困ったことはだな、」省三はいつになく泰然と言った。

「煩悩の生き物だということだよ。病になれば治りたい、治したいと思い、医者にすがる。医者は養生を教え、薬を処方する。薬はそれを治せるのか? 否だ! その場の付け刃だ」

「治せない? そうなんですか? でもご主人はいつも」

「そうだな。薬で治しているふりをして、実は、その患者を回り道させているだけなのかもしれない」

「回り道?」

「いつか人は死ぬ。どうあがいても、帝も上様も、武士も乞食も夜鷹も皆死ぬ。その最後へいたる道のりに、少し、回り道を作っているだけのかもしれないな。そう、そういったことがわたしの作る薬には出来る」

「そうですか。でもそんなことが? もし出来るならすばらしいです」

 おれが知らないふりをして尋ねると

「わたしは人の運命を操作することが出来るんだ」

「わかりません。難しい言葉です」

「雁也、おいで」

 主人はまだ日の暮れないうちからおれを寝所に誘った。いつになく弁のたつおれをにやにやして見ていたのだ。

おれはしぶしぶ誘いに従った。おれの体は幸助の薬の代金なのか。しかしだれが、おとしにおれの名で文を出したのだろう? 昇月せんせいか? なんだかおれは、実際、もうどうしていいかのかもわからなかった。

「お前を一晩でも離したくなくて、きのうは日帰りで帰った」

「そ……」

「本当のとこは違う。横浜の御仁に急用ができて、もういる必要がなくなったからさ。でも、そう言われて悪い気はしないだろう?」

「……」おれは、きつく睨んだ。

「お前の顔がいい。その勝気なところがいい。そして賢いところがいい」

 もういやだ。おれにとってはそんな安井屋はすべて嫌、嫌の固まりでその言葉は棘だった。

「ねえ、雁也。寅五のことだけど」

「寅五?」

 はっと体を固くする。

「おまえはあいつといい仲なの?」

「い、え。なんで? おれは……」

「雁也、今はこんなにもおまえが好きだけれども、おまえはこのまま、この少年の蕾のような固い、綺麗なままではいられないよ。花の命は短いからね」

「……」

 とうとう、この省三は、おれを鬼の息のかかった薬の実験台にするのか。思い通りにする薬か? それとも、気分が浮き上がる薬か?

「だから、おれは不老不死の薬を作った」

「ふ? ふろうふし?」

 こいつがおれに飲ませようとしたのは媚薬でなかったのか? 意のままに痴態を見せる薬かと思っていた。

「そいつはもうほとんど完成している。おまえそれを飲んでくれないか?」

「不老不死。死なないってことか」

「そう、死なない。このまま、十六歳のままだ」

『ああ、それもいいかもな』

 おれはそう思った。もう、なんか、どうでもよくって、おれは主人の差し出した一包の薬を飲んだ。とても苦い。それに鋼の味がする。省三が口移しで水を含ませる。焼けるものが喉から胃の腑をがんがんと打ち続ける。おれは頭の中がぼうっとして、そのあとは火花が散ったようになって、体は力が抜けてしまい、とうとうそこにばったりと、倒れてしまった。

 倒れたのに、ふわふわとしている。その後のことは夢なんだか、おれの勝手な作り話なんだかわからない。気がつくとやけにきれいな、白い小菊の一杯咲いている河原におれは座っていた。ああ、ここが、あのよく話に聞く、三途の川のほとりだと思った。おれはとうとう死んだのか、という気がした。むこうにぼんやりと明かりが見えるので、おれは行ってみることにした。あすこが渡し舟の船着き場なんだろう。

その明るい光は、なんというか、かがり火やろうそくとかいうかそういうものでなく、青い鬼火だった。宙に浮いて、炎の中心で髑髏が浮かぶかと思うと、次は人の泣き顔になったり、怒った顔になったり、おれは不気味で、目を逸らした。花ならいいだろう、しかし白い花は近くで見ると、小さい子どもの手の平だった。にぎったり開いたりしていたけど、腕から切り離されているかのように、茎で咲いているのは尚更気持ち悪かった。鬼火が囲んで輪になっている中心に、もっこりとした黒い塊があった。どうも人がうずくまっているように見える。誰だろう? やはりここから死出の旅に出る人だろうか。おれはなんとも心細くてそばに近寄った。誰でもこの恐怖を紛らわしてくれる者なら、極悪人でもいいと思った、

 うずくまっていたものが言葉を発した。

「雁也、待っていた」

「あ、あんたは? なぜおれの名を」

 おれは思わず後ずさりした。

 男はすっくと立った。身の丈六尺になろう大柄な男で、頭には二本の角、長い腕と体のあいだには、こうもりのような翼がついていた。蛇の皮膚のような皮の翼だった、おれはこいつが普通の人でない、とすぐわかった。化け物だ。

鉄のような顔色をし、落ち窪んだ目は赤黒い光を放ち、頬はこけ、薄い唇からは上下四本の牙が覗いていた。髪はぼさぼさで、頭をとり囲み、その束はまるでみみずのようにのったくっていたし、着ているものは、鮫の皮でできたような端切れで、前がはだけあばら骨が見えた。体も人とは違う鈍い灰色で、魚の鱗に似ていた。着物は体の皮膚と混ざり合っているようにも見えたし、草履のようなものを履いていたが、目や口がついていて、なんだか蛙をつぶしている感じだった。この男を見ていると、不安でどうにも落ち着かない気になった。話ができるということは人なのか。

「見てのとおり鬼さ。おまえたちはそう呼ぶ」

「鬼? あの、おれが見たまぼろしのなかで安井屋省三と契約した鬼か」

「そのとおり。さあ、おまえにも力を与えようと待っていた。どうだ」

「力って」

「おまえは親父を殺され、母親も、あの安井屋の主人に殺されたようなものだろう?」

 未未のことか。

「そのうえ、あの省三に無理やり手篭めにされ、恨んでいるのだろう」

「真実はそれなのか。鬼のおまえが言っているのが真実なのか」

「真実は、おまえが判断するものさ。真実は個々の人間が判断する。真実はすべての人に同じではない。自分が真実と思うものが真実だ。安井屋省三はこのおれと契約した。それは事実だ。これからも契約によりすべての薬が、あいつの願うがままに毒にもなるだろう」

「あの袖は?」

 鬼はにやりとわらった。おれはあきらかにこの鬼の物言いや勢いに流されていた。

「あの袂は契約のしるし。おれの片袖。また、翼の一部だ」

 たしかにこの鬼の着物はあの袂に似ていると思う。そしておれは真実を知りたかった。鬼の思う真実でも、それでも聞いてみたかった。

「じゃ、親父はだれに殺された。何が真実だ?」

「辰也は昇月を裏切った。『仇討ちだからって殺しはいけない。押し込みや強盗もいけない。奉行に届けて、お白州で裁かれるべきだ』と、昇月に進言したんだ。前から度々訴えていた。聞く耳もたないので辰也はとうとう見限った。というより、限界だったんだろうな。小者をしていながら、月の狼のことを黙認していたとなると、小物の仕事はもう無理だろう。自分もなんとかしなくてはいけないってね、それが、たまたまあの日だったんだな」

「あの日?」

 おれはあのときの半鐘の音、妙な胸騒ぎを思い出していた。風の強い晩で、おとしもおれも寝付かれず、まさか、親父があんな、肩から血まみれで帰ってくるとは露ほど思わず、その時の太助の声と、そして親父の断末魔と、おれの悲しみと。

「あの日は辰也が密告して、呉服問屋への押しこみが失敗したため、怒った昇月に切り捨てられた。まだまだ捕まらない。ゆくゆくは安井屋に押し込みお未未の仇を討つ、というあの卯之吉の願望だ」

「でも、それじゃ、いけないのか?」

 おれはせんせいの見方なのか、親父の味方なのか自分でも全く混乱してしまう。

「その仇討ちっていうのはいけないことなのか?」おれはそいつに聞いたんだ。

「いいや。おれは歓迎さ。怒りや憎いとか恨みとか言う感情がおれの力を増幅させる」

「あ」

「もっと入り組んで、もっと皆が、呪って、滅茶滅茶になる。全て誰もがお互いを疑い、仲間を陥れ、友達を苦しめ、さらに憎しみは憎しみを連鎖させ、仕返し、報復、無感情になり、無視が反感を呼び、反感は閉塞感、そして、行き場のない思いは自死を導き、そのくせ、弱いものはなお、自分より弱いものを求め、虐待し、そして子どもを巻き込み、言葉は関係を悪化させ、他人の不幸は蜜より甘い。」

 鬼は嬉しそうに語る。おれはそこに突っ立っているだけだった。

「安井屋は呪っていた。たぐいまれな才能がありながら、貧しい家に産まれ、勉学も満足に出来ず、親を恨み、独学で努力して、なんとか薬問屋で雇ってもらい。奉公しながら、薬のことを学んだ。そうしているうちに医者と知り合い、弟子にしてくれた医者は安井屋を始めは可愛がっていた。しかしその突出した才能を妬むようになり、自分の立場が脅かされると、ある日自分の患者の診たて違いを省三のせいにした」

「そ、んな」

 ことはもちろんあるのだろう。と、おれは考えがどんどん毒されてきている。この世の中そうじゃないか。すべて、弱いものが強いものにとばっちりを受けるものと決まっている。強い弱いは、自然に作られる。なぜなら、ひとは優越感を得ることで、自分を確立する。そして、より強い遺伝子を残そうとするのだ。

「その患者がやくざれた武士だったものだったから、死んだあとも縁者や子分に逆恨みされ、安井屋は夜に呼び出され、袋叩きになった。医者の処にも居られなくなり、転がるように逃げ出した」

 おれと少し似ている。

「食べる物もなく、体を休める場所もなく、そして最大に辛いことは、省三は自分の能力だけが支えだったのに、誰からも認められず、信用されず、失意のどん底で、頭の中では、なんとかここから這い上がって、自分を苦しめたものに復讐しようと、そのことを念じることしか出来なかった。苦しみは自分の腕を噛んで耐え、叫びは着物で自分の口を覆ってこもらせ、血を吐きながら、自分の小便を飲みながら、あいつは祈った。」

『おれは這い上がる。おれはこんな状態では死なない。絶対に死なない。おれは苦しめたやつらに仕返しをする。おれと同じ様な苦しみ、おれよりももっと大きい苦しみに突き落とす』

「あいつの声は何度も何度も暗い回廊に、地の底の淵にこだましておれの耳に届いた」

「あいつはおれを召還したんだ。千度は祈っただろう。一万回は叫んだろう。おれを呼んだ。」

 

 おれの目の前に幻燈みたいな、しかし等身大の安井屋が現れた。やつはおれの前で、一心に祈っている。

『この世には神も仏も無いのです。なぜなら、わたしは何も悪いことはしていません。日々誠心して自分の力で、病める者を救おうとしている。それなのにどうして、こう、酷い目にあうのですか。何度念じても仏は現われてくれなかった。何度祈っても神は降りてきてくれなかった。それなら、鬼を呼びましょう。鬼と結託すれば、鬼ならばわたしの願い聞いてくれるはず』

 不思議なことに安井屋省三が頭を地にこすりつけるように、鬼に祈念している姿が、そこに浮かび上がる。まるで芝居でも見るようにおれの目の前で鮮やかに繰り広げられる。痩せ細そり、地獄絵図に出てくる餓鬼道に描いてある亡者のような姿だ。

 

 得賂衣事一切我無(えろいずいっさいがむ)

 得賂衣事一切我無(えろいずいっさいがむ)

 

省三はしゃがれた声で、何遍もその呪文を唱えている。群青色の怪しい円い固まりがだんだんに人の形に変わり、さっきの鬼が現れた。

『省三なにが望みだ』

『ああ、あなた様は鬼ですね。鬼だ。とうとうわたしの願いが通じたのか』

『ああ、おまえの恨みは相当でかかったからな』

『恨みがお好きですか』

『そう恨み、妬み、憎しみ、怒り、そういうものをとても必要としている。おれたち鬼の一族の糧だ。お前さんの発散する負の力はもの凄い。この国のどこにいても感じることが出来る、おまえから多くの力をもらった。さて、おまえの望みはなんだ』

『わたしの家は貧しかった。そういう家に産ませた神を恨みます。あの医者を呪います。あの武士を憎みます。鬼さん、どうかわたしの望みを叶えさせてください』

『ほほう、それでどうすればいいんだ』

 鬼は愉快そうに続きを促す。

『あらゆる薬をわたしの願う効用の薬に変化してください。この世のものでないほど、効き目の現れる薬。人を極楽から地獄へ突き落とすような薬。たとえば初めはしつこい咳が治り、得もいえぬ心地よさが味わえるのに、呑み続けると、それ無しではなにも手がつかなくなり、さらに手や足が震え、その薬を得るためには言いなりとなり、たとえ糞尿まで口に入れても欲しがる、そんな薬です。しかし、その後も飲み続けると、歯は抜け落ち、鼻は解け、目は視る力を失い、下血する。あても無いまま歩き続け、歯が抜けても骨が折れても動き続ける。激痛で、体中千切れそうなのに、独楽のように崩れ落ちる。それでも飲みたい薬。それが無ければ気が狂いそうになる、もっと欲しいと強請る、そんなものを望むのです、そうすればさらに、恨みや妬み、苦しみが蔓延するでしょう』

『いいだろう。おまえの願いはこちらにも好都合だ。その薬をどんどん世の中に広めようじゃないか』

『ありがとうございます』

『して、どのようにそれを実行する?』

「薬問屋になります。最初はまず順当にお客を掴みます。よく効く穏やかな薬を売るのです。しかし、徐徐に、ゆっくりと、裏で、密かに試して行きましょう。口の堅い者を使うのです。日陰にいるような者を使って鬼さんの魔力の薬を試しましょう。少しずつ増やしていって、ついには安井屋省三の薬がなくてはだれもが居られなくなる、苦しみながら、もっと薬をもっと薬をと願うでしょう。骨のような手でわたしに手を伸ばし、強請るのです。そうして苦しみながら呪い死んでいく。わたしに特別なば力を与えて下されば、この世の人はもっと苦しみましょう」

「おおお、生き地獄であろうな」

 省三の姿がぐるぐると回りながら、空の彼方へ遠ざかっていく。

「へええっつへえええ」

 鬼の高笑いがおれの耳に響き、一瞬何も聞こえない程だった。

 

 ふいに泡がはじけるように、禍々しい密約の光景が消え、おれと鬼が取り残された。 

 どうしようもなく苦しくなった。安井屋省三は、鬼と契約して、そして悪事を加算しているけれども、しかし、本当にいけないのは、本当に悪いのは?

 誰なんだ? 省三に罪をかぶせた医者か? やくざな武士か? いったい誰なんだ?

 

 おれはわからない。真実が人それぞれなら、悪も善も人間と同じ数だけある。

「鬼」

「なんだ」

「おまえはおれと契約するのか」

「おうよ」

「たとえば、だれかを殺す薬をくれ、と言ったら」

 安井屋を? それとも昇月せんせいを? だれを?

「おう。安井屋省三を殺すのか。それとも昇月か?」

 真っ黒な望み。憎しみに満ちた望み。

「くれるのか」

「もちろんだよ、もちろんあげるさ。おもしろいじゃないか。へっへっへ」

「安井屋との契約はどうなる。そっちのほうが先だろう」 

「そんなもの、そんな約束は未来永劫続くというわけではない。裏切りこそ楽しいものはないな。それにあいつは自分の不老不死を願ったわけではない」

「でもおれは安井屋にその薬を飲ませられてここに来た」

「愚かだ。雁也。そんなの出来るわけ無いじゃないか。人は死ぬから、生きている、限られた時間を認識するから自己がある。不老不死があったら、それはむしろ人ではないだろう? おれはね」

 鬼は腕を広げ、こうもりのような翼を広げると、おれを周りから取り囲むように、近寄ってきた。なんともいえない悪臭が漂う。それは死人の匂いだった。そしてカビのような匂い、ああ、あの祠のヒツに入った袂と同じ臭いだ、とおれは頭の隅で思った。

「あんたが欲しいのさ。だからわざと半死状態にした」

「な」

「あんたはね、重要な駒だ。大切に育てて、うまいこと利用する。これからあと何年か後に」

「?」

「あんたが阻止するものに……」

「おれは……おれがもしその、安井屋かだれかを殺す薬をもらわなかったらどうするんだ」

「どうもしない。運命の輪はおまえを導いてくれる。」

 何だか息苦しい。胸が重い。ああ、苦しい。

「へっつへっひひひいいひい。雁也また逢おう、それまで苦しんでくれ。おまえは本当に、苦しみ方がいいよ。どんな苦痛も吸収する海綿のような体力。そしてばねのような精神力。もっと苦しめ。苦しむんだ」

 ああ苦しい。手も足もしびれ間隔が無くなり千切れられているようだ。頭はどんどん白くおぼろげになって行く。胸になにかが、規則正しく、ぶつかっている。でも目が開かない。おれはこの時本当に死ねかと思った。

「か、雁也、しっかりするんだ、しっかり」

 気がつくと、おれの上に省三が馬のりになり、おれの胸に心の臓の辺りを手の平でどんどんと何度も何度も押していたのがわかった。

「や、やめて」

 不快な動きで、むしろ苦しく胴を左右に捻った。

「おお、気がついたか」

 省三は今度は胸に片耳をあてた。

「動いている。心の臓が動いている。良かった。生き返ったんだな」

「は、は、」

 おれはまだ、体中重かった。しかしどくどくと心の臓が動くことによって痺れていた手や足の先が、じわじわと暖かく満たされていくのを感じた。頭の中も幾分すっきりしてきた、そう思った。

「良かった、良かった」

 省三は心からそう思っているようであった、四つん這いになり、暫く頭を抱え込み感極まっているのか嗚咽していた。そして次はごろりと横になり、

「不老不死の薬を願ったのに、鬼のやつめ、手をぬいたのか? わたしは雁也が死ぬかと」

 と脱力している。こっちも冷汗をかいて死にそうな顔をしていた。

 おれは息をしながら、やっと血が巡って頭が働き始めた。省三はおれが死にはぐったので、心底ほっとしているらしい。不老不死の薬の残りなのか、乳鉢にはいった粉薬を縁側の戸を開けて捨ててしまった。途端、この男色の残虐非道な人間がそれなりにおれを大切にしていることがわかり、まあ、それが色事ゆえなのだろうが、なんとも複雑な気分になった。

おれの軽く握った左手に円い丸薬があることに気がついた。小指の先ほどの赤色の薬だ。おれは先程、この世とあの世の間にさまよったらしいのだが、その境目で出会ったあの鬼の言葉を思い出していた。

 鬼はおれに安井屋省三を殺す薬をくれたらしい。それとも昇月のほうか…… 

たぶんこれは不老不死の薬とは違い、本当に人を一息に亡き者にする薬なのだろう。だれかを実験台にするわけにはいかない。安井屋にこれ以上体を滅茶苦茶にされるのは御免だけど、だからといってこれを飲ませてもいいものか? それにいつ飲ませる? それが決心つくか? 一瞬の判断の遅れがこっちの致命傷になる。

 伯父が押し入る前か。

 寅五が限界になる前か。それとも自分の為に、今日のいまか