薬種問屋はおれにとっては興味深いことの連続だった。

屋敷内とは別の管理している畑、山地などの場所で栽培した薬草を干して乾燥させ、それを薬研で細かくする。あるいは、ほかの問屋からも仕入れた物も扱い、乾燥させたり加工したりする。それから、朝鮮人参、零芝など外国のものを琉球から船で運び込んだりもしていた。表の帳場、そして生薬を売る店の板の間や棚には小さな箱が何列も何段も効能ごとにきちんと仕分けされ並べられている。

 そして、薬局にはたくさんの天秤はかりや薬研、皿などがあり、匙も大きいのから小さいのまで、また擦りつぶすための木槌や、何に使うのかわからない道具も真鍮製のもの、木でできたもの、陶器製などそれぞれ決まった所に置かれていて、きちんと仕舞われている。薬品を混ぜたりもする乳鉢はたくさん重ねられ、それは使用後きれいに洗われていた。板の間は塵ひとつないほど掃き清められ雑巾をかけられていたし、埃も全くついていない。帳場で働いている者はもちろんあの寅五はこの掃除を任されているらしい、おれは、以前したこともある掃除の大切さをここで改めて知った。もし自分がこの仕事をあたえられれば、きっと誰よりもうまくできる自信もあった。

 雨の日おれはいつもその薬品庫や薬局に行き、じっと座って薬の並び方を憶えてしまった。いろは順に並んでいたり、または効能別にまとまっていたり、それも他の奉公人の動きや、漏れ聞く話で、おもしろいほどいろいろな事を知ることが出来た。

 主人は帳場にいるときはおれを無視していた。おれも知らんふりをした、ふらふらして、鴨居や欄間をみるふりをしながら、主人の後ろに並んでいる、本や帳簿、いくつも並んだ百薬箱も目を皿のようにして見ていた。

 百薬箱の引き出しひとつひとつに丁寧に項目を書いた紙が貼ってある。そこは滅多に手に入らない貴重な物が収められているようだ。井守の黒焼きの粉末や、それから、海燕の巣、熊の肝、オットセイの肝もあったし、おれには到底読めないものも数多くあった。

 朝鮮人参は一番多くて、いくつもの櫃に入って重ねられている。

 百葉箱にひとつだけ何も書いていない引き出しがあった。左の列上から四番目。引き出しについているはずの引手もない。

 だれもいないときを見計らって、そこを開けようとした。指の爪で隙間を探る、

 考えていた通り開かなかった。鍵があるわけではないのに。なぜだ? 諦めるほかないのか? 

 何かひっかかる。開かない引き出しと鍵のかかっている部屋……

伯父はここに忍び込んでどうするつもりなのか。あの伯父の家のからくりの壁。おふくろとこの安井屋にどんな関わりがあったんだろう?

 それから幾日かたったある日、さも偶然のように近づいてきた寅五がおれに囁いた。

「雁也さん、今日の夕飯の汁は一滴も飲んではいけません」

「なんで」

「なぜ? そんなの自分で考えてください。しかしわたしのいうことを聞いたほうが、身の為ですよ」

「身のためだって」

 この汚れきった身体のことか。そんなものどうでもいいのに。

「それより、雁也さん、よい調子ですね、さすが親分、おっと、せんせいの甥っ子さんだ」

「寅五、おれはたとい甥っ子だとしてもな、そんなのなんにもならないだろう」

「そのあなたの根性。不屈の精神、それですよ。それを失わせないためにもね」

 寅五が言う意味はよくわからなかった。しかし、その後寅五の言葉の重大さを思いしる。その日の夕餉の汁はいつもと違い、いろいろな具がはいっていた。大根、菜っ葉、ごぼう、人参、芋、少量だが鶏肉も入っていたらしい。畑や薬品庫で働いている奉公人たちは舌鼓をうって食べた。お代わりをするものも多く、おれが飯と漬物ですましていると、怪訝そうな顔をするものもいた。しかしそれも一瞬で、またすぐ器をかかえるようにがつがつと食べ始める。だれもが無口だった。まるで話すことを忘れたように、口を食べるだけに使っている。おれは、隣の男が食べ終えた汁の椀を何気なく見た。すると、底に白い粉末が少し残っているのがわかった。

「あ」

 ヒヤッとして、おれは考えた。

 だれかが汁に何かを入れたのではないだろうか? おれは男が茶を汲みに行った隙にその椀の臭いをかいだ。それはまさしく薬の匂いだ。何の薬かわからないが。こいつら全部に何者かが、こっそり薬を飲ませているのだ。この作業人たちが、皆が例外なくだるそうに歩いて仕事をしているのを思い出す。

 もしかして、この薬は今日だけでなく、定期的にこいつらの汁に混ぜられているのではないだろうか?

「オイ」

おれは隣の席から立とうとしていた男の腕を掴んだ。どう見てもまだ若いのに腰が曲がった男だった。

「……」

 そいつはなにも言わずに、均衡を失い尻餅をついてしまった。目が虚ろだった。

「どうした」

 おれはまわりを見回した。薬の畑や裏で働いている者は、みんな、ここで食事をしている。二十人はいるだろう。しかしその誰もがそんなおれたちのやりとりに関心ももたず、自分の日常をしている。飯が終わったものは、ただ、あてもなくふらふらと、出て行こうとしていた。傀儡のように気力を失い、尺取虫のように歩いていた。

「げっ」

 ここは……恐ろしいところだ。人を薬で操っている。それも、こんなに多くの人間を。今だけでなく、いつからか

 どうする。どうしよう。寅五に教えてもらえなかったら、おれはきっと、この汁を飲んでいただろう。少し違った味がしても、気がつかないで。いや、丑造に仕込まれた舌で、たぶん始めは変だと思うかもしれないが、もし、それが常日常になって、何もする気がなくなると、感じなくなるかもしれない。それもあんなにうまそうに飲んでいたのを考えると、この薬は一度口にすると虜になってしまうものなのだろうか?

 ゆっくりとゆっくりと、草むしりをして、空を眺めぼんやりするだけになる。刈って葉をとったあとの茎を束ね、のろのろと手押し車で運び、疲れると座り込み……土や石を見る。まるで傀儡だ。いや傀儡よりもひどい。地獄だ。

 こんな、気味の悪いところは一刻も早くおさらばしよう。真っ平だ。

しかし、どうやってここから出る? もし出たとしてもどうする?

あの、伯父の言い分。母親のこと。

お未未の敵討ち、という言葉。

 おれは、おれは、親のために、こんな目にあっているのか?

 おれは親父からもおふくろからも、おとしからも、昇月からも、だれかれも愛されなくて、それでもその縁に、縋りついなくてはいけないのか?

そんなことを行ったり来たり考えていたら、その夜のことだが、主人の省三がぐったりしているおれの口に一粒の丸薬を滑り入れた。

「さあ。雁也、これは体にいい薬だから」

 おれは奴が、湯のみに水をいれるために後ろを向いたときに、その丸薬をこっそり口から吐き出しすばやく耳の穴にいれた。おれの特技だ。耳を羽二重餅みたいにぴったり閉じることが出来る。幸運なことに丸薬はとば口で留まる大きさだった。これがもっと小さいと、奥にはいり耳の中が具合悪くなるが、おれは無我夢中でとっさにそんなことが出来た。先ほどの薬の仕込まれた汁が、おれの心をもっと疑い深くしていた。

「さ、お水をお飲み」

 おれは薬を呑むふりをして、喉を鶴のように上にのけぞらせながら、ごくごくと水を流しこんだ。

「おまえは素直でいい子だね」

「ご主人さま、これはなんのお薬ですか」

「極楽になったように思える薬だよ」

「極楽?」

「そう、羽が生えて鳥のように空を飛んでいる気分、大きな魚になって海をどんどん泳いでいる気分、あるいは駿馬になって大地を闊歩している気分」

 そんな薬あるのか。そんな薬は阿片と同じじゃないのか? おれはこいつの試し台なのか。

「雁也はいい子だから、これをあげるんだよ」

「そうですか。どのくらいで効くのでしょう」

「それを知りたいのさ、おっと、違う、お前のこれまでの徳の積み方で、それは効き目がちがうのさ」

 省三はそうして、指でおれの瞼を裏返し目を見た。まるで医術の心得のある者のような動作だ。

「おお、おお、目がずいぶん潤んできたねえ」

 おれは、わざと悲しいことを考え、足をそっとつねり、涙を搾り出した。そして、女みたいに声を裏返して。

「ああああ」

 と震える声を出す。

「どうしたんだ」

「だって、なんだか、雲の上をふわふわしているみたいで」

 おれは立ち上がると体をくねらせて、鶏のように小股でそこらを、ととととと、つま先立ちで歩いた。なにしろどうしたらいいかわからず、とにかく気がふれたようにしようとした。莫迦らしいとは思わなかった。真剣だった。

「うん、これは即興性があるぞ。きのこの一種を乾燥させたスエピタイだが、どうやら、こういうものには興奮の効果があるのか?」

 省三は懐から紙と筆を取り出しなにやら書きだした。

おれは踊りながら、

「あああ」

 といって、よろけたふりをして省三の肩にもたれかかり、その文字を見る。

「待ってなさい。ハア、ハア、ハアアア。今、も、もう一回可愛がってやるから」

 おれはしまったと思った。それでばたんと布団に倒れると、眠った振りをする。

「あ、こら」

 何度か揺り動かし、起こそうとするが、おれが

「いやん」とかいいつつ絶対に起きないので、

「これは睡眠効果もあるのか」

 省三は腕組をして考えだした。一言のこらず聞き漏らすまいとした。

「スエピタイの変種ということだが、それにしても、この効果の素晴らしいこと。十四年前にあの女に試したときは、こんなに即効性はなかったな」

「あの女の喘息はすぐに治ったが、赤子を産んだあと、気鬱の病になってしまった。血の道が乱れる産婦には気分がすぐれないいのはよくあることだが、まあ、それでもこの薬を飲むと、気持ちが明るくなる、と言っていたな」

 おれは、喘息の女という言葉にはっとなった。それはひょっとしておふくろか?

狸寝入りしながら独り言を言っている主人の言葉を聞き漏らさぬようにしていた。

「なんていう女だったか、たしか木舞屋の女房で、あの女はわたしを信用してなんでも、そうどんな薬もよく飲んでいたし。しかしあの女、橋の欄干から川に飛び込むとは。いったい、自分が、蛙にでもなった気でいたのかな、こっけいな女よ」

 笑みさえ浮かべている省三を、薄目で認めぞっとした思いになる。

「雁也はそんなに興奮しなかったか。まだまだ改良の余地がある。常用すると、あのでくのぼうの喜市ように皮膚病になるし、これはまさしく匙加減よ」

 省三は独り言を言ってっていたがやがて、横になり鼾をかきだした。こいつは眠りにつくとめったなことでは起きないので、ほっとして心から安堵の深い息を吐く。むっくりと体を起こし、おれは呆然としていた。耳の穴から、先ほど省三がおれに飲まそうとした丸薬を取り出す。茶色の薬で、鼻に近づけても匂いはあまりしない。

これが、興奮させる薬なのか。いや、それより、あの独り言で話した女というのは?

 木舞屋の女房、突然橋から飛び込む、蛙のように。

 そいつは喘息の薬をもらっていて、

 伯父が言っていた。お未未は、白粉の粉を吸い込みすぎて咳が止まらなくなり、知り合いの薬屋が薬を融通してくれ、その薬で咳が治ったのに、そのあと、と。

 おれは知らなかった。親父もおとしもなにもいわなかった。川に飛び込んだなんて。

 だから、親父は

「お天道さまに恥ずかしいことをしてはいけない」とか言っていないと自分が

女房が川に飛び込んだら、亭主はどうなる?

『わたし、川にとびこみたくなるの』

『ぐだぐだいうんじゃねえ』

 おやじは気が短い男だった。

そうやって、何度も何度も、こいつは人を人とも思わず試して、検分して

そうしておれや、前の愛人や奉公人たちのことは全く考えない。糞ほどにも考えていない。

こいつは鬼だ!

 薬を使って病を治す、というより、自分の思いついたままに、自分より劣っている者を使って試し、自分は偉いとか素晴らしいとか思って楽しんでいる鬼だ。こんな奴は、こんな奴は河童に尻こだま抜かれて……くたばっちまえば、いや自分でそのスエピタイだとかいう薬を飲んで、川におちればいいものを。

 まてよ、だから昇月は、こいつを?

 寅五は昇月が大いなる望みを持っているといった。

 おれはその時、今までぼんやりと考えていたことが初めてしっかりとした形になった気がした。昇月は、ひょっとして「月の狼」なのではないだろうか?

 あの、巳ノ助や、丑造、寅五も含めて、盗賊の一派なのではないだろうか?

 きっとそうに違いない。紅い椿が咲く頃にはきっとの安井屋に押し入るのだろう。そして、そして? 月の狼はめったに人を殺さないという話だけど、そういえば、白粉屋の白牡丹の主人は殺された。刃物で滅多刺しにされていた。他の商家は、金を取られるだけで済んでいるのに。白粉の粉を吸って咳がとまらなくなった、それが白牡丹の白粉だったのなら。

月の狼はこいつも、この安井屋省三を殺すだろうか?

 あの、歌人の昇月が人を殺すのか?  鬼のような、この薬屋を。けがらわしい男色で、蜘蛛のように人をからめとり操り、あまつさえ薬で実験をして、使用人を虫けら同然にあつかっている。

 おれはどうする? いままではおふくろのことなんかどうでもよかった。しかし、もしおれが手伝うのをやめたら、伯父はどうする? おふくろはおれが仇討ちすることを望んでいるのか? いや、おふくろはそのままだ。生き返るわけは無い。死んだらそれっきりだ。

 おれはどうする? どうしよう。独りでおふくろの仇討ちをするか。それとも昇月の助っ人をするか。

 しかし、昇月だっておれを利用しているだけだろう。

 親父、今おれは聞きたいことが山ほどある。親父はだれに殺されたんだ? 肩からいっきに太刀で袈裟切り……

 あの時、月の狼が呉服問屋に押し入るという密告を奉行が受けて、親父はその張り込みに、冬の町に出かけていった。しかしあれが罠だったら? 罠、でもなんのための罠か。 親父に恨みがある者がいるのか?

 月の狼がわざと、そんな偽の情報を流したとしたら?

お袋はほんとうに薬のせいだけで、橋から、身を投げたのか?

「勝手に川にとびこむがいい」

 もし、だれかがそういうことを少しでも言ったのだったら?

 昇月は真実を知っているのか?

 真実、真実ってのは、いったいなんだ?

 おれはどうしたらいい。このまま昇月の命令に従うのか、それとも出し抜くのか。でもどっちを?

 

 それから、おれはおとなしく薬草の分別や細かく裁断する仕事をした。よく見ると、この薬問屋で働いている男は、老いも若きも、みんな、そう魂のぬけた人間のように、ただ、ぼんやりと働いていた。楽しみもなく、ただ、ゆっくりと、その作業の仕方は、まるで亀のように遅かったけど、それでも、のろのろとなんとかやっていた。

 帳場のほうの省三の下ではたらく通いの番頭、次席番頭、手代たちが三人とも、まともだったことを考えると、彼らが手弁当できていたことも含めて、おそらく、寅五が教えてくれたように薬で操るために、作業の奉公人だけに食事に時々、あるいは、頻繁に体がだるくなる薬を入れていたように思えた。

 そういうふうに何でも言うことを聞き、無駄なことをしないのは使う方としては楽だろうが、お化けみたいに、顔色が悪く、笑いもしない男たちの中に入って仕事をしていると、おれも感覚が麻痺して、それはそれでいいのかとも思うこともあった。

 彼らには笑いもなければ苦しみもなかったから。

 ただ淡々と朝、昼、晩を過ごしていた。それも、全くなんの成果にもならない仕事だったりもした。ここでこさえた薬草とやらが品物になっているとしても微々たるもののようにも思えた。

 そんな折、ここで働いてから初めて死人が出た。あの若いのに腰の曲がった、皮膚病の男だった。高熱を出し目や耳や体中から血膿が滲み出て、悲惨な最期だった。医者にかかる間もなくあっという間に死んだのだ。線香をあげようと列に並んでいると 寅五がそっとそこに加わる。

「雁也さん、仏さんが何で死んだか知っているのか」

「いや、」

 おれが短く答えると

「あの人はね、ほら雁也さんの前に愛人だった、名前はなんていったかな、たしか喜市さ。かれはね、一時はご主人の愛を一身に受けたんだけど、あんまりにもやきもち焼きだから、ご主人を指図するようになって、その後、ああなった。そうつまり、ものごとは良くわきまえるのが大切ってことさ」

と囁いた。喜市という名の男は湯灌にされた後、近所の墓地に埋葬にされる。それにしても、弔いをしているというのに、いつもと変わらない無表情の面々が連なっていた。それぞれ線香をもって簡単で粗末な焼香台に向かって並び、死んだ男に線香を手向ける。おれは寅五との話をほかの奉公人に聞かれても、全く構いもしないようになっていた。何を話していても、聞き耳をたてる者も、関心をもつ者も、咎めるものもいなかったからだ。

「なんか、前みたとき、やつは皮膚が爛れていたけど」

 おれは、死んだ男のことが気にかかり、怪しく思っていたのでそういうと

「なんか、薬塗られていたみたいだよ。それとも毒を飲まされたのかも」

「毒って?」

 おれがびくっとしたのを意外そうに

「薬と毒との違いなんて、あるの?」と、寅五はせせら笑う

「そりゃあ」

 おれはある、とも、無いとも言えなかった。寅五は帳場で働いているだけあって頭が切れた。

「雁也さんだって、ここに来てわかったでしょう。ここの、なんというか、しきたり、それとも隠し事? 企て、というのか裏?」

「しきたりってよ、なあ、それは」

「人は牛馬以下ってことさ」

「寅五、おれは、味噌汁に肉が入っているときは絶対食わないようにしている」

「賢明だね。あの鶏はね、試し台にされていると思う」

「なんだって」

「あの鶏はね、ここから、一里くらいの場所で飼っていて、餌に薬を混ぜて、いろいろ試しているみたいだから」

「ああ、なんてこった。その鶏を食っているのか」

 おれは口を押さえた。奉公人たちがうまそうに平らげていた、その光景が吐き気を呼ぶ。

「そう死んだら、汁に入れるの。骨から出汁がでるし、臓物もいれるから、さらに薬も加える。知ってるでしょ。あの粉。あれは……効能としては癪の症状の女に飲ますものだけど、あんなにたくさん入れたらもちろん毒ですよね」

「寅五、ここの省三ってやつは!」

「だから言ったでしょう。やつに天誅を与える。あいつはこの世の鬼だ。昇月せんせいは鬼を退治する」

 ここで思っていることを話してみることにした。

「寅五、おれは、せんせいを例の月の狼ではないかと思っている」

「さすが鋭いですね」

「じゃあ、やっぱりそうなのか?」

「ふふふふ、雁也さんの考えている通りですよ」

 おれは直感が事実だったことで、驚愕した。

 その時、帳場にいる番頭が走ってきた。作業所は喪に服して休みだったが、奉公人の不幸なのでお店の商いは開いていた。寅五を呼びに来たのだ、と思っていたが、番頭はおれに向かって駆けてくる。

「雁也さん、すぐにお店に顔を出してください、と、ご主人からの言伝です」

「え、おれ?」

「そうです。知り合いの方がお店にいらしています」

 知り合い? 知り合いなんて、ひとりだって、

この世の中におれの知り合いなんて。いや、伯父と甥という関係のあるものなら……せんせい、昇月か? しかしおれとの関係は公にしないはずでは? おれは小走りで店に向かった。

 息を切らして、店に飛び込むと、そこにいたのは、幸吉の手をひいたおとしだった。

「おとし」

「雁也、久しぶりだねえ」

 おとしはにっこりと笑った。

「なんで、ここに?」

「おや、おまえ文をくれたじゃないか。おれはここの薬問屋で奉公している。心配するなって」

 莫迦なおとし、おれは無筆なのに。忘れたのか? それとも誰かに代筆を頼んだと思っているのだろうか?

「あたしゃ、ほんとうに嬉しいよ。幸吉によく効く薬があるんだって?」

「あ、いや、それは」

 誰なんだ? そんな文を書いたのは? これも罠か?

「雁也、このおかみさんはおまえの義理のおっかさんなんだって? 水臭いねえ。もっと早く言っていれば、このぼっちゃんにいい薬を処方して差し上げたのに」

 省三はにこにこしている。おれはぞっとした。

「あ、いや、ご主人、それはあまりにも、勝手な願いですし」

「何をいっているんだい。奉公人の家族の病も治せないようじゃ、わたしの名が廃るよ」

 家族、家族か。おとしは確かにかつては家族で、その家族の考えていることは今も昔もまったくわからない。おれたちは家族になりそこないのばらばらだ。

「このぼっちゃんは腎の臓が悪いんですね」

「そうなんです。お小水のよく出る薬を煎じて飲んでいるんですが」

 安井屋省三は店のきざはしまで来て、そこに立っている幸吉の足に触れた。

「おお、たしかに少し浮腫んでいる」

 と、あのいやらしい目を輝かす。幸吉、年端のいかない幸吉まで、こいつは自分の玩具にするつもりか?

「わかりますか?」

 おとし、いいのか? 幸吉は、よくなるどころか、もしかすると、もっと悪くなるかもしれないぞ。新しい薬の効き方を試される実験台にされるのかもしれないんだ。

おれは省三に言った。

「ご主人、幸吉はこれまでの薬でずいぶんとよくなってきましたし」

 おれはこの時、なんとか、この腹違いの弟、このなんの罪もない、幸吉を巻き込むことは避けたい、と思ったのだ。

「そうだね、でもわたしの薬はもっと効くよ。さあ、待っていなさい」

 省三は立ち上がると、

「番頭さん、番頭さん、への六番にの十三番を大匙半分にそれにあの壺に入っている……」

 番頭は立ち上がり主人の言っているへの十三番の引き出しから生薬をとりだした。そして、手代も薬局から壺や、箱を急ぎ足で持って来た。省三は紙にすばやく書いている。おれはそんな店の中で呆然と立ちすくんだ。

「雁也、おまえ、給金はどれ位もらっているのかい?」

 棒切れのように突っ立っているおれを見て大声もはばからずおとしが言った。こいつはいつもそうだ。人が何を考えていようが、全くどうでもいい。おれの青い顔を見たってなんにも感じようとしない。

「あ、いや、おとし、あの壺の中のへそくりは」

「いいよ。そのかわり、ここのかかりはお前のつけにできるんだろう?」

「なん、」

 おれは次の言葉を吞み込んだ。

「あの文は本当にうれしかったよ。なにしろおとっつあんが死んで、頼みの綱のおまえも出て行っちゃうし、あたしゃ、暮らしていく余分な金はないし、仕立ての内職で細々なんとか食べていくにしても、幸吉の薬代まではとうてい手が廻らない。それが、おまえが薬種問屋に奉公して、そのおまえの計らいで、いい薬を融通してもらえるなんて」

「おとし、おれは」

「おかみさん、これからも度々お越しください。雁也もお待ちしていますし」

 たびたび? たびたびだって? おれは、愕然とした。こいつは幸助を、幸助の体を使う気か? どんどん自分勝手な試し台に引き込む気か?

 番頭が薬を袋に入れてもってきた。省三はそれを受け取ると、

「さあ、これを進ぜましょう。無くなったらまたいらっしゃい」

「ありがとうございます」米つきバッタのように何度も頭をさげた。

 おとしは幸助の手を引きなが嬉しそうに出て行く。おれは、幸助の裸足の足の小さい草履が、ぱたぱたと通りに出て遠ざかっても、暫くそこで留まっていた。はっと我にかえり、まだその足音が聞こえるようで、一瞬迷って、戸口から飛び出した。おとしも幸吉も影も形もなかった。