「こんな性格になったのは親のせいだ」
 おれがそういった時、聖は
「そうかもしれないけど、でもそれはこれからどうにでも変われるんじゃない」と、言った。
「そうかな」
「そうよ、絶対」
 それは舟の上の会話だった。おれたちは海を渡り、高句麗か新羅か、そこらへんに到着するつもりだった。なにぶん魚を捕る舟なので、たいした造りではなかったし、速度も遅かったけど、あの過去の妄執にとりつかれているような国から脱出するには、浮かぶというだけで十分だった。力の限りに水を掻けばどこかへたどりつけるという希望があった。
「聖はどう? 自分の性格って考えたときある?」
「全くないわ」
 そう答える聖の瞳は灰色だった。引き込まれる、というより、とりこになってがんじがらめになる、そんな目だ。それなのに目元を緩めると、ほかの女子と違っているように思えないほど愛嬌がある。顔立ちは整いとても賢そうにみえるし、実際、彼女の頭は非常に良かった。あの場所、つまり正夢島でであった時から知っているんだ
「わたしはね、あまり性格ってないのよ」
 聖の答えは曖昧で不思議だったけど、そのことに頓着する以前に、おれはすでにふるさとのことに思いを飛ばしていた。ふるさと、といより、自分がかつて属していた家族のこと、そしてそれからの道のことを......おれは聖に向かって、そいつをとつとつと話し出した。

 その日も親父は晩飯もそこそこに出て行った。真冬で、風が滅法強くて、安普請でたてつけの悪い家は、まるで生きもののようにひいひいと悲鳴を上げていた。
「まったく、あの男は自分の家の普請もしないで。こんなことばっかり」
 継母のおとしはそういって、布団に寝ている五歳の幸助の額に手を当てた。幸助は生まれつき体が弱い弟だった。そんな母子の様子をおれは薄目でみていた。眠っているふりをしていた、
 幸助を少しうらやましいと思った。自分は丈夫でめったに熱もでないかわりに、額に手を当ててもらうことも無かったからだ。
「雁也、おまえはあんなことに関わっちゃいけないよ。あんな銭にもならないことばかり。自分の息子が具合の悪いときも、捕り物があると聞けば尻に火でもついたみたいに......。そのくせ、おんなじことばかり莫迦の一つ覚えみたいに言いやがる」
 おとしがいっているのは木舞屋の生業を持ちながら、小者の仕事にかかりっきりになる父親の辰也のことだとすぐわかった。おとしの言葉を聞くまでもなくおれは父親の口癖を先ほどから思い出していた。
「雁也。お天道様に恥ずかしいことをしてはならねえ」
 親父の辰也は同心の手伝い、といっては格好が良いが、まあ、聞き込みや使い走り雑多な用足し、後片付けみたいなことをやっていた。本業のほうが天気の具合や、注文のあるなしで、年中あるという仕事ではなかったので、むしろ、岡っ引きの子分としての働きに時を費やすほうが多いと言ってもよかったかもしれない。
 今夜は、日本橋にある呉服問屋に強盗が入る、という密告が奉行所にあったので、その警備、というか捕り物の助っ人に加わっている。町の辻に張り込んで、怪しい者が通ったら、調べ、あるいは縛り、それを同心に伝える役目である。新発田という同心に仕える小者仲間の太助と、受け持ちの場所に赴こうとしていた。
 本当に賊が現れるのか、虚言ではないのか、すっぽかされるのではないか、というおとしやおれの懸念がわかるのか、あるいは自分でも半分は自信がなかったのか
「ほんとに来るかわからねえ。だけどよ、賊の仲間が、その、足抜けしたくてこっそり知らせたのかもしれねえ」
 夕飯のとき親父はそう言いながら、飯に湯をかけて流し込んだのだった。親父は早く飯をすませて持ち場へ行きたいのか、妙にそわそわしていた。
「おまいさん。幸助がちっとばかし熱っぽいから、今夜はお役目を休めないかねえ」
 おとしが遠慮がちに言ったのに、親父はむっとしたらしく
「おとし。おまえは口が開けば幸助、幸助ばかりだな。ちっとは雁也の面倒をみているのか」
「......雁也は放っておいてもしっかりしているから」
「そういって、お前は雁也が小さいとき抱きもしなかった」
「......」
「それによ、おれが今夜持ち場にいかなかったら、あすこの張り込みは太助だけになっちまう。賊の逃げるときに、何も出来なかったら、張り込みの意味がねえ」
 親父とおとしのそういった口喧嘩ははじめてではないが、おれはうんざりとした。もう聞き飽きていた。それに自分が原因だという居心地のわるさに、飛び出したくなる。ああ、またか。おれはかすがいどころか厄介ものだ、と。
 おれの本当の母親はもういない。おれを産むとすぐに死んだらしい。だから、おれが三歳のときに後妻にはいったおとしのことをおっかさんと呼んでもいいのだけど、おれは呼べない。おとし、と呼んでいる。はじめは眉をしかめたおとしもこの頃は、どうでもよくなったらしく、おれたちは他人のようにこの家にいる。親父がおれの母親と夫婦になったときに、仕事仲間の連中と建てた家だ。おとしと夫婦になってから何年かして幸助が産まれたが、おとしがおれを可愛いがらないぶん変に義理立てしているのか、親父は幸助を可愛いがらない。親父の小者の仕事におとしは不満だし、幸助も親父になつかない。この家は屋根があってその下で暮らして、肩がくっつくほど狭いのに、気持ちはみんなばらばらだ。いや、唯一幸助とおとしは固くつながっているけれども。
 晩飯はいつものように無言で終わり、親父は法被の下に綿のはいった袖なしを着て出て行った。おとしは切り火もせず見送りにもでない。食欲のない幸助の体をとってつけたようにさすって目はあらぬほうをみていた。
 質素な晩飯をすましたら、後はすることもなく、いつものように狭い一部屋におとし、幸助、おれ、と川の字になって布団に入っていた。だけど、親父が捕り物の手伝いに出た夜おれは決まって眠れない。おとしもそうなのだろう。幸助の額に濡れた手ぬぐいをあて、溜息をついては、何度も寝返りをしている。
 おれはいろいろ考える。今夜、ほんとうに、密告のあったとおりに、強盗が呉服問屋に押し入るのだろうか? とか、親父は外にじっと張り込んでいて寒くないかな、とか、それから同心の新発田のこと。親父にとってこの人は、一番尊敬する人らしいが、どんな男なのかな、とか。それから、親父の仕事のこと。
 親父の本当の仕事は木舞屋だ。木舞屋というのは、壁に土や漆喰を塗る前に、土台を竹で編んで作る仕事だ。親父は手先が器用だから、みるみるうちに編んでいく。手の動きがまるで花から花へ蜜をあつめる蜂のようにすばやい。時々見とれてしまう。おれは、来年から、そう年があけて春になったら、親父のところで見習いになる、そういうことになっている。
 でもおれは実は不安だった。手先が器用でないし、親父のように出来るだろうか、ひとつ仕事を根気よく、最後まで仕上げることが出来るだろうか、と。おれは自分でも飽きっぽいことを知っていたからだ。
 じゃあなにかしたい仕事があるのか、と考えるが、得意なものは何一つ無い。寺子屋も行ったこともあったが性に合わない。ずっと座っていると尻がむずむずする。でも、体は軽くて走るのは好きだから、と半年くらい前から使い走りはするようになった。
 親父の兄弟が左官屋をやっているので、親父とそこの間をいったりきたり、材料だの、道具だの、伝言だの、それから弁当だの。そんなものを、時には背負ったり、時には荷車を引いたりして運び届けたりする。うまくやったときは小銭をもらう。もっぱら弟の左官屋の方に、だ。
「まだまだ、半人前だ」
 といって親父は滅多にくれない。その使い走りの仕事も毎日あるわけではない。親父が帰ってくると、いっしょに材料や道具の片付けをしたりもするけれども、それも、おれにとっては夢中になるようなものではなかった。一方、小者のほうの仕事には後ろで目立たないでついて行くくらいなら、許してくれたが、踏み込みが過ぎるとすぐ追い返された。
 番屋は、町内の揉め事の掃き溜めで、いつも岡っ引きや小者の出入りがあり、おれは色々なことを黙ってでも見聞きすることが出来た。しかし、「この餓鬼め」と怒鳴られて、追い出されたりすることもあり、そう頻繁には行けないし、長居も出来なかった。
 中途半端な年で、背ばかりひょろりとしているのに、家の中でごろごろしている姿がうっとうしいのか、おとしも買い物だの、幸助の薬をもらってきてくれだの、いろいろ言うようになってきた。
 しかし使い走りに言っても途中で、面倒になってしまうんだ。
「なんか、面白くねえな」
 そういう考えがむくむくと心に湧いてくるのだ。
「こんなこと、女子どものすることじゃねえのか」とか。
「使い走りなんて、犬っころにだって出来る」とか。
 まあ犬よりはましとは思っていたけど。
 おれは十三歳だった。親父の手伝いも、使い走りもい嫌ではなかったが、半分ぐらいくると足を休めながら、ぶらぶらと歩いている。のろま、とか愚図、とかおとしは言うけど。本気になれば、早く走れる。それも同じ年のやつらのなかでは一番速い。でもおとしにはそのことは言わない。おとしが重宝するより、のろまのままの方がいい。
「あんたみたいな不器用な者は、父親の仕事の手伝いをするのが関の山」
 おとしは軽蔑の顔で、こう言う。おれは
「かったるいなあ」と言う。
 互いに自分の言いたいことだけ独り言のように吐いている。
 風がますます吹いてきた。こんなときは強盗の一味には好都合なのだ。多少の物音がしても、風が家を揺らす音と区別がつかない。
 次に押し込みのことについて考える。強盗の一味は今年になって二件ほど、大きな商家や問屋を狙って、うまいこと成功している。手引きできるものを予め奉公させ、金目のものがどこにあるのか綿密に調べて、手際よく盗み出すのだ。刃物をちらつかせるが、滅多に人は殺さない。強盗の月の狼一族という名は、自分たちで言い出したのか、だれかが呼んだのか、わからないけど、月の狼、といえば、御府内では、赤ん坊から、年寄りまで知っていると思う。
 おれは、おとしがうつらうつらして来ているのを見た。暗闇に目が慣れたこともあるし、おれは夜目が利く。これは親父に似たのかもしれない。親父はいつも
「おれの目は梟くらいによく見える」
と、自慢するから。
 そうして、強盗たちもそうなのかと考える。身軽で、目がよくて、手先が器用で、そして......仲間に強いつながりがあって、頭はとてもいい。
 金はどうしてひとつ処に集まるのか? たとえば強盗がたびたび押し入っている商人の家。どういうやり方で金を集めるのだろう? 身を粉にして働いている者がいて、それ相応の身代を持つ。しかし、豪商とよばれる者はそれだけではないような気がする。なんか裏の手みたいなものを使っている。その手が問題だ。その手を黒い、と言う人もいる。商人その集まった金をせっせとは自分が仲間にしたい武士や権力を望む者に渡す。黒い手は墨のようにどんどん色が移っていく。
 その商人から金を奪い、どこかに隠している盗人たち。盗人たちは、そんな商人たちよりも
「何本も黒い手をもっているのだろう」
 おれは百足を想像する。
 この長屋の近辺は、みんなかつかつの暮らしをしている。ここでは金はただ懐を通り過ぎていくだけだ。ああ、かったるい。
 おれの家には金がない。幸助のからだが弱いから、医者のかかりが多いらしい。それに親父は酒もばくちもしないけど、小者の仕事はそれなりに銭を使う。行き来にかかる舟代だったり、飲み食いする金、ちょっとした手間賃やあるいは袖の下だ。だから
「すってんてんのすっかんピン」
 と、おとしはそういうけど、おれは知っている。おとしがこっそりへそくりを隠している場所を。土間においてある茶色のつぼの中だ。こつこつと仕立物をして貯めた金だ。でもそんなのは僅かな額だ。着物の一枚も買えやしないだろう。それでも貯めている。
 御府内ではその日暮らしのはした金しか持っていない人が九割で、あとの一割は、贅沢をしている選ばれし者で。
「お天道様にはずかしいことをすると罰があたる」
 親父はそう言う。でも
 あの月の狼の一味には全然罰があたらない。
 おれは月の狼の一味にちょっと憧れている。いや、ちょっとどころでないかも。おれの心のなかの一部が叫んでいる
「かっこいいじゃん」
 そう叫んでいる。捕まらない。むだな殺生はしない。今までたった一人白粉屋の白牡丹の主人が殺されただけだ。主に強欲と言う評判の商人をねらう。そして、屋根に上り、遠吠えをする。
 わおおおおおおおん、
 おれが月の狼のことを知ったのは瓦版もあったけれども、そう、かな文字だったら何とか読めるから。おれはそれだけは必死になって読んだ。それから親父や小者仲間の太助から漏れ聞いた話、それに巷の噂もあった。
「こんどは鶴亀屋だそうだ」
「あそこはあこぎな商売をするからね」
「この前の、白粉の......」
「そうそう白牡丹! けったくそ悪い材料で作ったから、みんな鉛でひどいあばた顔になったっていうのに、お店は知らぬ存ぜぬで、しらばっくれて、恥も知らないでいたから、月の狼が襲った」
「月の狼の天誅が下った!」
「鶴亀屋も白牡丹の二の舞だ」
「あすこの反物は織りを粗くしているから、すぐに綻びるし」
「色だって一回の洗い張りで落ちる」
「鶴亀屋はお城に献上しているから」
「お城には極上の織物。錦に友禅! 玉繭、繻子」
「ほうびに大判小判がやってくる」
「お蔵にどっさりこ」
「天誅をくだすのは月の狼」
 そして今日、その鶴亀屋に月の狼が忍び入るとの密告があったのだ。
 親父は大丈夫だろうか? おれはなんとなく胸騒ぎをしていた。親父はいつになく、落ち着きがなく、いらついていた。
 北風がやっぱり心配そうにひょうひょう吹いている。
 だけど暖かい布団にもぐっていると、瞼が重くなってきていつしか眠ってしまったらしい。どこかで半鐘がなる音で目がさめた。おとしも布団の上で半身を浮かしているのがわかった。
 ジャンジャン、鐘は火事を知らせている。近いのだろうか? 親父は? 親父は火事に巻き込まれていないか? 野次馬の整理にかり出されていないか? 火事は近そうだ。
 おれは布団から、飛蝗のように飛び起き、土間に裸足でかけ降りると、心張り坊を取り、戸を開けようとした。瞬間、外からガラリと勢いよく戸があけられた。真っ先に目にはいったのは、小者仲間の太助の顔だった。おとしが行灯の火をともす。そのあとおれの目にはいったのは戸板に寝かされている親父の姿だ。
「お、おとう」
「か、雁也、早く布団を敷いてくれ」太助が、上ずった声で言った。
 おれはこんどはこおろぎみたいにひょこたんとした動きで、座敷のすみに重ねてあった布団を広げた。せえの、と言う掛け声で親父が抱え上げられ、俺の目の前を通過して、横たえられた。
 肩から胸までさらしが巻かれていたが、紅布を巻いたと思われるほど真っ赤だった。
「いったい」
 おとしが、そのありさまを見て、口がなにかでふさがれているように、泡を飛ばしながら尋ねた。
「うちの人はいったい、うちのひとは......」
「面目ねえ。辰也はおれと一緒に見張りに立っていたんだ、急に、覆面をした三、四人の一派が駆けて来て、辰也が両手を広げ、止めようとすると、辰也にいきなり、袈裟懸けに斬りかかったんだ」
 吐きだすようにその時のことを告げる太助が、言い終わらないのに
「うわあああああ」
 と、叫び声が上がった。おれは親父を見た、白目をむいて体を海老反りにして苦しんでいる。
「おとう!」
「お医者は? 医者を呼んでくださいよお」
 おとしが叫んだ。幸助も火のついたように泣き出す。
 おれはそのあとのことはまるで、紙芝居のように、輪切りになって覚えている。
 肩口の切り口から、どくどくと血が布団に沁みていって
 医者が駆けつけてきたときはもう親父は呼んでも目を開けず
 そのまま、がっくりとなり
 土間には小者仲間の太助と、あとは名前は知らない、番屋で見たことのある男が三人、やるせない顔で立っていて
 医者が帰り支度をして、冷える暇も無い草履に足を入れると、それまで、遠巻きに見ていたおとしが
「おまいさん! 何とか言っておくれ」とすがりつき
 医者は「お気の毒です」といって、暁の中に出て行って
 そこへ同心の着物を着た新発田が、たぶん新発田だろうが
「辰也!」と、息も荒く入ってきて、
 その場を一回り見たあと、がっくりと肩を落とした。
 親父はその夜、太助と見張りに立っていたが、新河岸町の方向で、火の粉と煙が上がり、火事だとすぐにわかり、新発田に断りを入れてからそっちへ助っ人に行くべきかと、あたふたと打ち合わせしていたところに、突然の怒号と、三、四人の駆けて近づいてくる足音が聞こえ、こんな時刻にと不審に思い、問いただそうと立ちはだかったところ、有無を言わせず、袈裟懸けにされ、親父はそこに棒立ちになり、なにがなんだかわからない顔をしていた、と、そう太助は締めくくった。
「月の狼の一派は鶴亀屋に現れなかったが」
「ひょっとして、奉行が出張っているのを感づいたのではないか」
「あるいは、断念して引き返していくときに」
「腹立ち紛れに辰也を」
「だとしたら、辰也は無念だの」
 そんなふうに新発田と太助や小者たちが話しているのを、おれは呆然と聞いていた。それなのに蝉の声みたいに、じんじんと耳に残るのはなぜなんだろう?

 親父が亡くなって葬式が終わり二日目の晩、おとしは
「あんたは明日から、亥吉のところに見習い奉公に行くんだよ」
 と言った。親父が死んでから、やっとの思いで葬儀をすまし、野辺送りをしていたように見えたおとしだけれども、おれの行く末を抜かりなく考えていた。
「え」
 おれは愕然とした。亥吉は親父の弟で、左官屋をしていた。顔も知っているし、仕事も少し見たことがある。木舞屋が編んだ土台の上に土や漆喰を塗っていく、退屈な仕事だ。あの月の狼の仕事に較べりゃ、全部つまらない、と思った,
「おとうが死んだし、お前が働いてくれないと、おまんまも食えない。自分の食い扶持ぐらい稼ぎな」
「かったるい......」
「雁也!」
「わ」
 わかったと言う言葉を飲み込んだ。真っ平だった。おれはその翌朝、亥吉のところに出かけるふりをして、おとしの金を持って家出した。茶色いつぼのなかにかくしてあったへそくりだ。
 あてはなかった。頼る人もいなかった。ただ、もう、ここにいても仕方ないといった気持ちだった。
 世の中はちゃんとしくみが出来ている。町人はなにかしら仕事を持っていて、あるいは家族がいて、ひとつ処に住んでいる。そういう者は一応認められている存在である。しかし、仕事もなく、家族もなく、住み家もないのは町人とは言わない。流れ者と言われる。浮き草や泡のように流れていく存在。波の気のまま風の向くまま。しかし、思ったところに行けるわけではない。根っこが土に埋まっているわけでもない。
 おれはまだ、何の稼ぎもなかったけど、だからこそ、どこかへ根を下ろすまえにどこかへ、流れていこうと思った。
 だけどこんな餓鬼は思ってもいなかったものに手繰り寄せられ絡めとられるものなのだ。その時は知る由もなかったけど。
 その日は野宿でもするつもりで、綾瀬村のあたりを歩いていた。その先の金町を通り抜け川をわたり、相馬を経て常陸の国の奥に入ると、炭鉱があって、いくらでも人足を使ってくれると聞いていた。炭鉱はきつい仕事だろうけど、そこで、懐に金が入れば何とかなる気もしていた。あるいは、川の堰を作る仕事でもいい。土や砂利を天秤棒で運べばいい。川沿いで洪水の続く龍ヶ崎村ではそんな治水工事のための人夫を絶えず集めていると聞いていた。おれは仕事が楽に出来ると考えていた。
 ところが野宿でもしようかと、祠やお堂を探しているおれの姿に、日も暮れかけ頃合もよしと考えたのか、後をつけていたとしか思えない、胡散臭い男がここぞとばかりに近寄ってきた。追いはぎだろうか、とまずは考えた。こんな子どもでも一人歩きしているからには、何か特別な用事があると思われても当然だろう。
 おれは親父からなにかを教わったわけではない。だけど、小さい頃から自然に、まわりに細かい目配りができるようになっていた。たとえば祭りに出かければ、スリが女の懐から、財布を引き抜くのが見えたし、火事の野次馬の中で、火付けが一人で高笑いしていたのもわかった。それから、どこかの国の殿様の行列の従者が、本当は隠密なのもわかった。あと、長屋で洗濯をする女たちの中に、もとは武家の奥方、というのがあだ討ちの為に潜伏していることを知り、そのことを親父に話すと、
「ふうん、雁也、たいしたものだ」
 と言った。実際その女は、身分を偽り長屋で仮の生活をしていたのだった。
 そんな目を持っていることがたいしたものかどうかはわからないが、おれが裏街道を歩いてくる時から、そいつはずっと後ろを歩いていて、追い越しもしなければ、離れもせずについて来ていた。
 時を計っているのだろうか。御府内から抜け出れば奉行の管轄からも出てしまう。そこからは何をされても、何があってもおかしくない状況になるのだ。おれに用があるとすれば、この川を渡ってからことを起こすか? そう考えていた矢先だった。
 突然その男が話しかけてきた。
「おい、坊ず」
「......」
「おまえ、腹が減っていないか」
 たしかにおれは空腹だった。朝、おひつに残っていた米飯を手づかみでかき込んで来たが、その後は、ただ逃げるようにここまで来ていた。
「......あんたをつれて来いってのが、親分の命令でな」
「お、親分?」
「ああ、来ないか? 飯もあるし、あったかい布団もある」
「なに者なんだい?」
「親分か? それともおれか?」
「両方」
「まあ、来いってことよ。名前を知りたいってえのは、素性も知りたいってことだろう」
 実際のところ、おれは少しほっとしていた。おとしのところから飛び出してきたものの、世間の風は冷たくて、世の中は金。金がなければ、縁、という図式がここにきてやっと納得したような気分になる。縁っていうのは、なんだ、つながり、っていったらいいのかもしれない、いままで、親戚とか血筋、とか、っていうのはうざったいっていう感じだった。長屋の連中のおせっかいも、詮索も、口も、まとわりついてきて、血を吸いやがる蚊みたいだと思っていたけど、いざ、自分がひとりになってしまうと、なにもかもが、その蚊に刺された痒みさえもが、なんとも懐かしいんだ。
「わかった」
 おれは一瞬懐を押さえた。そこにはおとしのへそくりがそっくりそのまま入っていたからだ。
 今頃、おとしはどうしているだろうか。幸助の薬代まで持ち去ったおれを呪って叫んでいるだろうか?
 おれの前を歩いている男は細身で、普通の町民とおなじ地味な着物だったが、ここは川も近く風が強いためか、下に綿入れを着ているのがわかった。それから、頭は素浪人のように、月代は剃らずに、紐でまとめているだけであった。目つきはいやらしい感じで、おれはかまきりみたいだと思った。
「親分はおまえの目がほしいらしいぞ」
「......」
「それに、おまえの本当のおっかさんのことよ」
「え?」
 風の音でよく聞こえなかったけど、おれの耳におっかさんという言葉がじんじん響いた。
 おれが生まれてすぐに死んだというおふくろのことをこいつは知っているのだろうか?
 そのことをどうやって聞こうかと考えた。でもそのことを聞くのは、家出してきたのに、まだ乳臭い赤子のままのような気がして止めた。
 おれが連れて行かれたのは垣根が立派な家だった。向島に住んでいる油問屋が隠居するために立てたが、完成するやいなや病でこの世を去り、それを安く譲ってもらった、ということをかまきり男は言った。
「ここに住んでいるのは、表向きは歌人の昇月せんせいだ」
 と、その素浪人は言った。
 親分と歌人が同じ人を指すのかどうかはわからなかったけれども、おれはその庭の中に入った。もとが隠居住まいだったからか、庭には植木がそれなりに配置されていた。
 家は座敷が三つ四つくらいある小ぢんまりした造りで、おれは畳敷きの部屋に通された。足が汚れていたが、とがめられもしないのでそのまま上がった。
 ここはおれの育ったあの長屋の家みたいに狭くなかったし、派手さはないがしっかりしていたし、細かい部分が凝った作りなのがわかった。
「坊ずをつれて参りました」
 奥の一室の前の廊下で、かまきり男が言うと
「お入り」と言う答えがあった。
 おれはためらいもせず障子を開けて入った。そこには、おれの親父くらいの年の男が座っていた。中肉中背で、髪は医者のように粋に茶せん髪に結ってあり、袖のない茶羽織を着ていて歌人というのはこういう人かとも考えたが、角ばって表情のない暗い顔は、角のはえた雄の甲虫にもみえた。
「雁也だね、まあお座り」
「......なんでおれの名前を?」
「おまえさんは知らないだろうが、あたしはおまえの伯父なんだよ」
「は」
 おれは尻餅をつくようにぺたんと腰を下ろした。
「おまえのおっかさんのお未未ってのがねえ、あたしの妹で」
「それが?」
「そっけないねえ。おっかさんが恋しくないのかい?」
「おっかさんはまだ生きてるのかい?」
 おれはそんなことはありえっこない、と思いつつせんせいとよばれている甲虫男の顔を探るように見た。
「お未未は、生きていれば、三十三歳。おまえはちょうど二十歳のときの子どもだからねえ」
 なんだやっぱり死んでいるんじゃないか。
「雁也のことはお未未が死んでからずっと、こっちで引きとろう思っていたよ。でも、ほら辰也さんがいたからねえ。わたしもあいつが後添えをもらうまでは、辰也のことを信用していたんだが」
 と甲虫男はじっとおれを見つめて言った。
「雁也。おまえは何にも聞いちゃいないのか? おっかさんのことを。何で死んだかを」
 おれはうなずいた。知っていたから、どうなる? 死んだものは、生き返ってくるわけではない。おれはそう思った。でも違かった。
 ひとの死ってものは、それがどんな死に方であれ、つながりが濃いほど、大きくしみのように思いが残るものなんだってえのはしばらくしてからわかったことで、その時は、どうでもよかった。とにかく何でもどうでもよかった。ただ何か食いたかった。
「何か食わしてくれ」
「おお、気づかないで悪かったな。今、何か持ってこさせよう」
 せんせいは立ち上がって、厨にでも行ったらしい。おれはさっきのかまきり男が何か持って来てくれるのかと、考えていたけれども、そうではなく、昇月が自分で膳を持って入ってきた。握り飯が乗っていた。
「さあ、おあがり」
 握り飯をむさぼり食った。菜っ葉の入った汁もあったのでおれは熱いやつをかまわず飲んだ。
「おお、やっぱりお未未といっしょに、煮えたぎる熱い汁も平気で飲んでいる。そんなとこまで似るのかねえ」
 おれは知ったこっちゃ無い、と考えた。とにかく寒い中をとぼとぼ歩いていたので、熱いものが飲みたかっただけだ。そうして、汚い手でもかまわず握り飯をほおばり飲み込んだ。がつがつ食べ続けた。最後には、塩味の残る皿まで舐めた。
 そのあと、おれが満腹になりぼんやりとしていると、昇月は独り言のように話を始めた。
「雁也のおっかさんは今も言ったように、お未未という名でね、未年生まれだからだよ。あたしは、本当の名は、卯之吉さ。昇月っていう号にしたのはウサギだから、月に昇っていくっていく寸法さ。あたしたちは四つ違いの兄妹でね、生まれは下野だが、御府内に流れてきたのが、十七年前かねえ。」
「......」
「まあ、あたしも未未も、あるお店で奉公していたんだけどね。白粉のお店だった。未未は白粉を作る作業をしていたね。そのころ白粉は飛ぶように売れていて、何でも、上様のお目にとまった大奥の女中が塗っていたとか、芝居小屋の人気女形がつけていたっていう噂が飛びかって、まあ、目の回るくらいの忙しさだ。そこに何が入っているかは秘密だよ。いろいろなものを混ぜる、鶯の糞も混ぜていたっていうのが噂だけどね」
 おれはげえっと思った。鳥の糞を混ぜた白粉を塗る女の気持ちがわからなかった。
「女の顔に浸みとおるように塗ることが出来て、さらに肌のきめを細かくする、なめらかな手触り、絹のような白粉、というのが売りで、いったい何を混ぜているのか作っている者さえわからない。あたしたちは違った持ち場で働いていたから、お未未にはたまにしかあえなくてね、でも、時々休憩所で見かけるたびに、顔色が悪くなってきているとは思っていた。そんな時突然、未未は急にお暇を出されたんだ」
「なんで?」
 どうしたんだ。おふくろは何で暇を出されたんだ? おれは探るように伯父の卯之吉の顔を見た。伯父は目をぎゅっと瞑り、そのあと、決心したように続けた。
「粉を吸い込んでいたので、毎日毎日、朝から晩まで吸い込んでいたので、ありゃ、毒が入っていたんだな、咳が止まらなくなった。そりゃ苦しそうで、寝ても覚めてもごほごほとしていたから、あたしが、そこの、まあ、雇い主にね『せめて薬代を』ってお願いしたら、文句がるならてめえも辞めろ、てね」
「な」
「おまえらみたいな人間は虫けらと同じだ。ごみだ。薬なんて飲む資格はない。働き蟻よ、働けなくなったら、消えろ。消えてしまえ。そういったのさ。そいつは。あたしたちはその後、住まいも追い出され、泣く泣く流れ、ようやく見つけた汚い長屋に落ち着き、あたしは未未の薬代を稼ぐためにいろいろなことをした。そう、金になるなら何でもやったさ」
 伯父がどんな仕事をしていたかはわからないが、きっと、きつくて大変なことだったのだろう、とおれは黙って話しの続きを待った。
「その時、つてで知りあった薬問屋から、咳にきく良い薬をわけてもらうことになった。それはまだ、なんていうか、効き目をまだ試している最中のやつでな。医者に知らせるのは止められた」
「あ」
「それを未未に飲ませたら、みるみるよくなった。薬がぴたりと合ったんだな」
「へえ、よかったな」
「そうだな。咳は治ったんだ。それで終わればよかったんだがな」
 おれはその時伯父の奥歯に何かはさまったような物言いに少し、今から思えば、違和感みたいなものを感じていたのだけれども、それでも話の続きのほうを知りたかった。それから? と。その後、どうしておふくろは死んだのか? と。
 ところが
「それで未未は元気になり、たまたま仕事で隣の家の普請に来ていた、おまえの親父と知り合い、仲がよくなり、祝言をあげたのさ」
 チャンチャン、と昇月が講談師のように終わった合図の擬声音を入れてしまう。
 おふくろの話はこれで終いらしい。やけに唐突に話は途切れた。何で死んだかはまるで出てこない。何で死んだ? 自分から言い出したくせに、昇月が唐突に口を噤むわけはなんだ?
 そしてずいぶん長い間、沈黙が続いた。伯父の顔はまるでこの世の終わりのような顔色をしていた。だけど、その原因なんて考えもしなかったのだ。おふくろのことは固執する気もないし、おれはじっとしているのは得意だったから、そのままぼんやりと相手の出方を待った。
「雁也。これからどうする気だ?」
「たぶん、常陸のほうにでも行って、人足になるかな」
「ここにいる気はないか」
「ここって、この家にか?」
「いや違うな。ここはたんに連絡所でしかない。だから、ここにって言う聞き方は変か。そう、つまりあたしのそばで、あたしの手伝いをしてくれないかってことだよ」
「かったるいな」
「人足よりはずっと楽だよ」
「手伝い......どんなことをすればいいんだ?」
 使い走りだろうか、それとも、雑用だろうか。おれは面倒くさいって思う癖がむくむくと頭を持ち上げて来たのがわかった。なんでそんな仕事をしなくちゃいけないのか、もちろん、人足だって仕事は並大抵のきつさではない、と知ってはいた。でも、違うんだ。自分は人に媚びたり、お世辞を言ったり、ぺこぺこしたり、とそういうのがとにかく、嫌いなんだということをわかっていたのだ。人足だったら、言われたとおりをしていればいい。
石でもなんでも運んでいればいい。
 せんせいの手伝いとやらがなにをするかまったくわからないし、飽きっぽいおれには出来っこない。そんなおれの頭を覗けるわけないのに、伯父は言う。
「何をするかはおいおいに......」
「せんせい、おれは」
「知っているよ。おまえさんは何かに縛られるのがいやで、家出してきたんだろう。左官屋に奉公に上がるのを蹴ってきたんだろう」
「......」
「だから、ここにいるってのは結局縛られるってことだから、迷っているのだろう。でもね、あたしのそばにいると面白いことを憶えられるんだよ。かったるいなんてことはおまえさんの口から、出なくなるだろうよ。少し様子をみたらどうだね、それで、嫌になったら、他所へ行けばいいじゃないか」
「......わかった」
 おれは寒い中再び戸外に出て行くのが億劫でうなずいた。伯父はそれでも、甥っ子として優待してくれる気はないらしく、厨の隣の部屋に、
「さっきおまえをむかえに行った奴がいるから」と、そこで寝るようにいった。
 かまきり男の名は、
「巳ノ助だよ」と言った。多分、巳年うまれなのだろう。