「……幸吉」

 陽炎が立ち上り、夏の始めの草いきれの匂いがつーんとした。

親父は自分に懐かない幸助を可愛がらなかった。それはおれに義理立てしていたのでは、と自分なりに考えていたが、そうでもないのかもしれない。

 要するに親父は、子どもも女房もどうでもよかったのかもしれない。

 なぜなら、いくら責任を持とうと思っても、死んでしまったらそれまでだから。

 親父は同心の新発田の仕事を手伝いながら、多分いろんなことを切実に考えていただろう。無念に殺される者もいたし、生きていくうえで仕方なく盗みを犯し、咎を受けた罪人もいただろう。だれかに騙されて罪を被った者や、それから自害した者。心中と、かどわかし。……数え切れないほどのそれぞれの事情と罪。

 生きるということはなんだ?

 親父はお未未と、多分見初めあって夫婦になり、

 でもそのお未未が橋から飛び込んでしまい

 残された親父はどう思ったのか。

 裸で泣く赤子を必死で育て、乳を求めて泣く赤子にもらい乳をして、頭を下げ、頭を畳にこすりつけて。

 そのうち男手ひとつではもうどうしようもなくておとしを迎え入れ

 自分のそばからいなくなった者をどうしても、呼び戻すことができない。心も体も。

 親父はなぜ同心の仕事を手伝った? おふくろのことがあったからか?

 そうではないのか? しかしおれはそんなことさえ、おやじの声を聞いた気がしない。

 親父と同じように、おれは今、どうでもいいのかもしれない。おふくろの仇も、それから、省三への復讐も、そして、これから昇月とどうやっていくかも。

 もし昇月のいうことを聞かないで、ここに留まり、薬草を製品にする仕事を毎日して、夜は、心の底から嫌だけれど省三に抱かれるのをずっと、これからも、毎日していたら、 おれは幸せになれるのか? それともおれはどうなりたかったんだ?

 かたぎで、こつこつ働き、何も悩みもない、そのかわりわくわくする楽しみもない、

 それが幸せ? 

 いや、違う。おれの鼻に線香の匂いが漂って来た。

あの死んだ男にだれかが、そのあっけない死を、せめて線香を立てて、弔おうとする人の気持ちは、ああああ、おれも、おれも、省三が飽きたら、あんなふうにいっきに薬で、息を止められるのに違いない。それとも川に流されるのだろうか。薬で眠らせて。

「幸吉……」

 安井屋が幸吉にあげた薬が、もし、効き目があるとしても、でもそれは試しているだけのもので、本当は害があるものだったら。

 どうしよう?

 おれは考えながら歩いているうちに、はっと気がつくと、屋敷のはずれまできていた。

北側は大正堀川に面していて、屋敷内にも低いが堤があった。堤の先は葦や蒲が一面に川面がみえないほど生えた湿地になっている。その堤の少し西側に、いつも全く気がつかなかったし、こんもりした藪だったので、中を調べもしなかったのだが、何気なく覗くと、その中に開けた二坪ほどの場所があり、真ん中におれの頭ぐらいの高さの祠があった。祠には、狐も狛犬も守りをしていないし、御幣も注連縄も鈴もない、それが地蔵をまつっていあるのか稲荷なのかも判明しない。錠前がきっちりとその戸を閉ざしている。顔を近づけ腰をかがめ、夜目にもきく便利な目で、隙間から薄暗い戸の中を覗いた。ほったらかしの状態ではなく、蜘蛛の巣や埃もないし、こぎれいに整っていた。札とか仏さんとかは居ない。ただヒツ、というのか、そんなふうに呼ぶみたいだけど、両手でも持てるくらいの箱が置いてあった。納戸にあれと同じヒツが、大事な書付や帳簿を入れて収められていたのを憶えている。

 なんだろう? その祠の中はそれしかなかったし、はじめは試し台になった動物の死体やしゃれこうべでもはいっているかと、びびったが、どうやら、あのヒツを隠してあるだけのようにも思えた。そのヒツにも錠前がついている。

 あれは何だ。

 いつも省三の後ろにある百薬箱。そのひとつひとつの名前の書いてある引き出し。名前のない上から四番目の引き出し。

 開かない、そもそも取っ手がない。あれがこことつながっているのか?

 堤に上がり、ゆっくりと流れている川の風に当たりながら考えていると、よしずを作るために葦を刈っている、いかだ風の簡素な舟が寄って来た。川は秋の長雨で水かさが増し、そんな舟ならこの堤まで近づくことが出来た。二人の人影があったが、葦を束ねている顔がこちらを向いた。

「丑造」

 手ぬぐいで頬かむりをしていた顔が懐かしさといっしょに蘇る。

「雁也、手紙だ」

「あ、二回め」

「この方法を取るしかなかった。おまえは外に出られないから」

「はっ」

 もうひとりの男が弓を引き矢を放った。巳ノ助だ。矢はおれの隣の木の幹にどすっという音で突き刺さった。凄い腕だ。おれはこの時恐怖を感じた。その原因となる、喉の奥につかえている黒い塊を、この時はじめて訳を知ることが出来たからだ。そうだ。おれは、主人の省三とああいう、囲い者というか男色の関係になってから、一回も屋敷の外に出ることが出来なかった。侵入が難しいということは出るのも困難ということなのだ。

料亭の冬椿へいった時も、省三の乗る籠の後にわざわざおれの乗る籠も頼んであって、おれは駕籠と言うものに初めて乗ったのだが、全く楽ではなかったのだ。狭い中で揺られ、早く着くことだけを願っていた。

 逆に言えばおれは、あの時逃げられなかった。もし、籠から飛び降りたとしても、体がふらふらとしていたから、走れただろうか? いや、とにかくやたら頭が重かった。厠にいかなくてもすむようにね、と差し出された一杯の薬湯を飲んだが、あれだったのか? 眠り薬か、料亭に着くと、眠気はなくなったが体はずっとだるくて、省三はわざとしたに違いない。

 おれはもう、この屋敷から逃れられないのか? その事実は恐怖というより、やがて一種独特の快感にかわった。おれはこの屋敷を破壊してみせる。安井屋省三を出し抜いてみせる。そういう決心だ。

これで恐怖のひとつは飛んだが、もうひとつの怖いことが待っていた。むしろこっちをなんとかしなくては……おれは矢に結び付けられていた文をほどいた。葦の隙間から、こちらを伺う丑造にむかって声を張り上げる。

「丑造、おれはこの、昇月先生の出した課題に合格することが出来るかな? 以前、煎餅やのときに誉めてもらえたみたいに」

「さあ」

 丑造の言葉はそっけなかった。おれはさらに続ける。

「おれはずっと、この先もみんなの仲間になれるのかな?」

「ずっと? 先のことなんてだれがわかる。わしは、いつも今を生きる。だから、先のことは知らん」

 丑造はくるりと後ろを向くと、再び葦を束ねそれを舟に乗せ、巳ノ助に声をかけ、淡々としたふたりは遠ざかって行った。おれは丑造の言葉で心が揺らいだ。

 文を開けると

 

 なにがよわみかしらべろ。

 

 と書いてあった。なるほど。たしかに、よわみか。弱みがしりたいのか。おれは昇月の巧妙な計画に舌を巻いた。省三を襲うのには 家のなかの手薄のところだけではなく、省三の弱点をついていくつもりなのか。

 しかし弱点はあるのだろうか? あの頭のいい、薬のことに沢山の知識を持ち、それを巧みに利用し、身を守ることに関しては万全な省三を出し抜くことが出来るのか?

 とりあえず、とおれは整理することにした

 昇月せんせいは、安井屋省三がお未未の仇と確信している。省三の独り言によれば、木舞屋の女房は喘息の薬を処方されるうち信用が増し、その後に気鬱に聞くといってもらった薬で、蛙のように川へ飛び込んだ。伯父の昇月にとっては、そうなるに至った証拠がほしいのだろう。そして、省三はいろいろな薬の試し台をしている。お未未を始めとし、もと愛人の小僧喜市も変な塗り薬で皮膚が爛れ死んだ。それは寅五も疑っている。しかしそれも証拠がない。奉公人たちの飯についてもそうだ。おれが味噌汁の椀の底の粉を集めたとしても、偶然入ったといえばすむことだ。それに誰かが入れるのを見たわけでもない。

 しかし奉公人をないがしろにしている。まるで犬猫同然。いや、情けもかけずにおのが勝手な考えで、汁やお菜に薬を矢鱈めったら混ぜているように思える。だからあいつらはいつもだらだら、喜怒哀楽もなくでく人形のようだ。

 店の常楽散という薬は人気があり、飲んだ者はこぞって何度も買いに来る。あれを飲むとすっとするし気持ちが楽になる、そういう話で、常楽散めあての客は引きも切らない。しかしかなり高価なことも確かで、猫がマタタビを好きなのと同じで、人も腑抜けにするなら、それも世の人を惑わしているのと同じだ。常楽散のおかげで、安井屋は蔵が建つくらいだ。

 昇月せんせいはそういう人間を成敗したいと考えていた。あの、白粉を作る白牡丹はすでに、月の狼の刃にかかり主人は殺された。

 月の狼は金をとることを目的としていないのだろうか。

 人々を苦しめる悪行をしながら、お奉行の手に晒されない、そういうやつを生きていけないようにじわじわと締め付ける、あるいはおおやけにするのが月の狼なのか?

 月の狼が昇月せんせいだとしたら、省三の弱みを知りたいのは道理だ。そこから策を練るのだろう。どういうふうにやつを追い詰めるのか。

 おふくろが死んだとき、親父はどうだったのだろうか? 親父のことはわからない。

昔、ただ、一言

「おまえを産んだおっかあは弱かったから」 

 と言っていた。弱いのは体だけではなくて、もしかして心のほうもかもしれない。何かに揺れ動いてしまう心。

 親父は一本気な男だった。女房は言わなくてもわかってくれると考えていたかもしれない。人の心なんてわかるはずがない。

 と、おれはわれに返った。とりあえず、省三の独り言が事実かを固めることがたいせつだ。そいつが弱みになるのだろう。

 おれは再び祠の前にきていた。目の前にある祠の扉をなんとか開けてみようとした。幸い小さなものなので、手斧かやっとこをつかってこじ開ければ、中のヒツは取り出せるが、どうもそっちの鍵が問題だ。手荒にして中身がお釈迦になってしまえば元も子もない。それに何者かが持ち出したとわかれば、屋敷内を始終うろうろしているおれが真っ先に疑われるだろう。

 なにしろこの家屋敷で、省三に薬で操られていないのはおれだけだし。いや、もうひとりの寅五は、やはりそうだろうけど。

 おれは本当に操られていないのかな? 自由に屋敷内は出歩かせてもらっているが。

 省三は開けられない部屋がある、と言った。屋敷内ではそんな部屋は見ていない。母屋はもちろん、蔵も作業所も、省三の私室も頻繁に夜伽のために入っているが、からくりがないのは何回も調べていてわかる。あの伯父の家での修行が役に立っていたのだ。

 だから、あの時は聞き違いをしたのかと考えていた。でももしここが、その開かずの間だったとしたら?

 開けたらきっとすぐわかるのだろう。

 それともはったりか? 開かずの間なんてないのか。おれを脅かすことが目的か。あの百薬箱が怪しい。上から四番目の名前のついてない引き出し、  

寅五か、寅五をどうするかな?

 おれは考えを行ったり来たりさせながら屋敷に向かって歩きだした。

 

「明晩は戻らないよ」

 省三はいつものように、しつこくおれを思い通りにしたあと体を離し、ほとぼりを冷ましてからそう言った。

 おれはその言葉で、一瞬で明るい気分になった。このえげつない省三に撫でられ、人をまるでごみ箱のように扱い、そのどん底に突き落とされたように思う夜の何刻かを、明晩は持たなくていい、と考えると大声で笑いたい気分だった。しかし、そんな気持ちを抑え

「寂しいです。どこへ行くのですか」

 と猫なで声で訊いた。

 省三はおれに肩を揉ませていたが、その言葉で、気を好くしたのか、

「横浜だよ。荷揚げされた珍しい薬を確認して受け取ってくる。そのあと、むこうの薬種問屋の主人と料亭で会うから、そのお宅に泊めてもらう」

「番頭さんも一緒ですか」

 おれは、この機会をなんとか自分のものにしたかった。

「おや、珍しい、嫉妬しているのかい? 弥平はつれていくよ。それに手代の隼人もつれていく。明日は帳場はがらんとしてしまう。留守番の次席番頭はいるけどね。お店は急を要するお馴染みさんだけに売るから」

 おれは、これはと思った。さらに念を押す。自然と手に力がこもる。

「ご主人、寅五さんは?」

「おまえ、寅五にも妬いているのかい? そうだね、そうだ。たしかおまえは寅五が中に入り紹介で来たんだったね」

 と、くるりと後ろを向くと、おれのほっぺたを両手で挟み込んだ。

「ばかだねえ。あたしが寅五になびくわけないじゃないか。あいつはあばただよ。あたしは美しいものがすきなんだよ。おまえは美しい。可愛いよ。あんな見栄えのしない寅五は連れていかないよ」

 省三はおれの唇に自分のぬめぬめした唇を押し当てた。おれはおえっとなったが必死で耐えて、そのあとの省三の動きを頭の中から他所に飛ばしながら、策を考えた。

 寅五を利用するしかない。おれは自分のなかにも鬼が芽生えたような気分になった。

 翌日朝早く、主人と番頭、手代の三人が、駕籠と徒歩で出かけた。帳場はもう一人の番頭に任せられ、新しい客には売を控えること、とお達しがあり、店の様子はいつもと変わらないようにおれは思った。この日の昼前おれは体がだるいから、といって、その番頭に訴えた。帳場ではおれが主人の愛人ということはみんな知っていたし、おれがその立場を利用したりわがままを言ったりしていないし、まじめに作業の方をしているのをみんな知っていたので、受けはそんなに悪くはなかった。

「番頭さん。体がどうもだるいんだよ。なにか元気になる薬はないかしら」

 おれがわざと露わに襟をはだけていたので、如才ない番頭はそのところどころにある、省三の仕業の赤いしるしを見てとり

「雁也、ではこれはどうだい。」

といって、後ろの薬種箱から、丸薬をとりだした。

「体が疲れているときは血の道が滞っていることがある。これは血がさらさらになる薬だよ。高価なんだ」

「番頭さん、ありがとう」

 おれは勢いいっぱいの笑顔でそう言うと、それを手の平に乗せてもらい、いっきに喉に入れた。省三が密かにおれにくれる薬と、店にあるものは全く違うと知っていた。

「じゃあ、お礼に冷たい麦湯を持ってくるね。今日もとっても暑いものね」

 おれは寅五にも聞こえるように大きな声でいった。帳場にいる番頭と寅五のために、おれは井戸端でやかんごと冷やしている麦湯を入れた。そして、姫のようにしずしずとお盆を持っていく。

 お盆には湯飲みが二つ。ひとつは普通の麦湯。そしてもうひとつにはある薬草の粉末を入れた。おれがここで働いているうちに身につけた知識だ。その草を飲むと、腹くだりをする。主に便秘の薬になる生薬のひとつである。おれは、どうしたら番頭が薬のはいっているほうを選ぶか考えた。盆の真ん中にひとつ。端よりにひとつ。そうして、机を挟んで、遠くから渡そう。おれは

「番頭さん、麦湯をどうぞ」

 と盆を差し出す。書き物をしていた番頭は、

「悪いねえ」

と、手を伸ばし近いほうをとった。おれは内心でにやりとする、そして寅五にも進める。寅五は懸命に書面の写しや、なにやら算盤で計算していたが、

「雁也さん、気が回るね」

と意味深に言った。寅五は麦湯を口にしなかった。

おれはしばらく、時間をつぶした。あの下剤が効くにはどのくらいかかるか、考えていた。その間、省三のことを考えていた。

 弱み。おれのおふくろのことはもし本当に省三の仕業だとしても、そんな昔のことを『だからどうした』と言われればそれまでだし。お奉行に訴えお白州につれていくには、証拠がないと無理だろう。

 その証拠があのヒツに入っているとしたら、と目星はつけても、実際はわからない。なにが入っているのか? その、薬についての書付だといいんだが。あるいは、中身や分量や、その効能や、飲んだときの患者のようすとか、そういうものが記されていれば。

 おれは、厠が見える物陰で待っていたが、やがて腹を押さえた番頭の姿が見えた。

 おれは急いで、帳場に戻る。

 寅五がおれの姿をみると、さっと立った。

「雁也さん、」

「寅五、番頭がこないか見張っていてくれ」

 おれは懐から、針金を出した。錠前破りにはうまくは使えることは滅多にない代物だが、いろいろ使い道はある。百薬箱の左の上から四番目。その引き出しを開けてみようと考えたのだ。引き出しならば、隙間があるはず、その隙間にこの針金を差し込んで、と。

 しかしどうしたことかその隙間がない。この細い針金が入るような、糸ほどの隙間もなかった。どうみても板がはめ込こまれている。外れないだろうか、と、とんとんと叩く。しかし、木と木の隙間は膠でもぬってあるのか、ぴったりとくっ付いている。おれは次に錐を懐から出した。穴を開け、そこに針金を通してみようとした途端

「雁也さん!戻って来ます」

 寅五の慌てた声がした。おれはさっと、飛びのき、鼠のようにすばやく帳場の後ろの納戸に隠れた。納戸には長持やヒツ、壺が山ほどあった。風通しは良くしているし、きちんと整理してあり、虫干しもしているのを見たこともある。薬種問屋だけあって、白陶のびんに入った生薬や、色々な粉薬を収めた目録の貼ってある箱、本などが左右上から下まで棚にずらりと並んでいたが、ここは、番頭だけでなく、手代も、丁稚の寅五も入れる所だし、おれはここには秘密の書物はないと考えていた。

 省三の日記や覚え書、効能の書いた物が一番ほしい。省三は頭が良くて、なんでも、どんなものにでも、対処する薬がわかり、巧みに調合してまるで医者のようで、

 おれははっとした。医者も店によくやってきた。薬を仕入れて患者に出すためだ。省三と医者のつながりは? あるいは……後にいるのは、後ろには。

「雁也さん」

 寅五の声がして、おれはびくっとした

「番頭さんがまた厠に行きました」

 寅五は明らかにこの事態を楽しんでいた。

「わかった」

 おれは百葉箱の前に立った。すぐにがばっと這いつくばる。床をなめるように見ているおれに、驚いた寅五が

「ど、どう?」

 と、唐突なおれの動きにびっくりして言う。

「寅五、おれはな、あのせんせいの家で朝から晩まで、何度も何度も、掃除させられていたんだ」

おれは床の木目をじっと目を凝らして見た。あの百薬箱の前の床が擦れて細かい傷がついているのを見つけた。幾度も箱を移動させた跡だ。 

「おい、手をかせ」

 百薬箱を二人で前にずらす。重い物は入っていないので、しんどくはなかったが、出来るだけ、形跡を残さないようにしたかった。箱の後ろに、体が入れる程の空間ができたので、おれはそこに入り込み、にんまりと笑った。

「思ったとおりだ」

 上から四番目は後ろに引き出しが開くようになっていた。

「雁也さん、早く」

 おれは引き出しから輪っかに通された二つの鍵を取り出し、百薬箱を寅五とともにずらして元に戻す。懐に鍵を押し込み、帳場から速やかに出ると、まっすぐにあの屋敷内の端にある祠に向かった。

 後ろで寅五が番頭に

「どうされました。お腹の調子でも?」と問う声が聞こえる。

おれは心の臓がばくばくしていた。番頭に見つからなかったから、寅五を出し抜けたから。そしてうまく鍵を手に入れられたからだ。もしかして、というより本当にぴったりと合うような予感があった。

 それにしてもこの主人の省三はなんと悪知恵が働くのだろう。薬種問屋というより、薬を使って、医者でもないのにいろいろな病気を治そうとしたり、治す? そうなのかな。医者は、多分、仁術の心で患者の病気を治そうとしているけれども、省三は自分の知識を使って、自分の商売道具を、人を使って試している、その結果、まえの愛人の喜一って小僧は皮膚病になったあげく、死んでしまったし、使用人たちを大人しくさせるために食事に何か入れている、それにおれにも、あの駕籠に乗った時だけど、一服の薬湯でぐうぐう寝てしまったし、そして、あの夜も、変な丸薬を飲まされそうになったし、幸吉も……あの薬は真実、幸吉に善い薬なのか? あれは番頭が調合していたが、分量は省三が指示していたし、あれは本当に病を治すものなのかもしれない。

 ああ、おれはどうすればいいんだ?