最終章 復活

 エスが連れていかれた時、ちらりとぼくを見たような気がして、ぼくは再び愕然とした。
 ぼくはエスをこんなに傷つけた。とりかえしのつかないことをしてしまった。ぼくはエスを裏切った。
 嵐だった。
 その夜から大雨になった。ヤダヤの国は雨季に入ったのだ。放射能を含み、体をむしばむ雨が磔になったエスの体に無情に降りかかる。雷が威圧するように轟く。稲光に浮かび上がる、両の手の平と、足の甲に釘を打ちつけられ十字架を背負って、天に抗議するようにそそり立つエス。
 無情に、体を溶かそうと意思をもつのか、絶え間なく注がれる雨。
―なぜわたしが磔になったんですか。
 エロ、イズ、イッサイ、ガ、ム。
―あんなに人々のために尽くしました。それなのにわたしをお捨てになるのですか。
 エスの呪いの声が丘に低く木霊する。遠くの雷の音、そして雨の音と、女人のすすり泣きのような風の音と。雨が地をつたう鈍い音と十字架に振動するエスの絶望をはらんで身動きする音と。
―銀髪の大天使よ、わたしを見放すのですか
―王よ、あの時のことばは偽りだったんですね
 エロ、イズ、イッサイ、ガ、ム。
 ぼくは丘のふもとの岩の陰でじっとしていた。どうしたらいいかわからなかった。ぼくがあの星印に密告した理由は早く目をさましてほしい、もとのエスに戻ってほしい、とその一念からだ。
 それは、間違っていたのだろうか?
 エスはもう羽化してしまっていて、きっと鬼としては通常なのだろうが、でもそれは、本来のエスではない。エスの魂はもっと純真で、エスの存在はみんなのよりどころで、オアシスなのに。   
 人々の為に自分の身を削ってまで、飢えるものの口を満足させるマナンを出そうとしたエス。そんな愛にあふれたエスなのに、エスは「王」という言葉が現実味を帯びたとたん野望に目覚め、鬼に羽化して、その手は黒く穢れ、もうマナンを出すことができなくなっていた。
 いやそうじゃない。もうエスは変わっってしまったのだ。体中の血液を全部とりかえてしまったくらい、脳みその隅々まで、鬼になってしまったのだ。
 そのエスが、このぼくが、密告したためにいま十字架に磔になっている。
 きっと痛いだろう、きっと痛いどころでない。今なんの望みもなく、ただ恨みと憎しみと苦しみに耐えるしかない。それでなくても心が萎えるというのは、エスをそういう状態にしていしまったぼくの原罪のこと。
 ぼくが放っておけばエスはあのままでいられたのに。
 でもあのまま、本当にあのままでよかったのだろうか?
 エスの突出した言動は遅かれ早かれ広く知られただろうし、王はエスのことをずっと注視していたわけだし、エスはどっちにしても、罪人になり......
 でも、そんなこと言い訳だ。ぼくがエスをずっと信じていればよかったのに。もっと何か方法があったかもしれない。
 どうしよう、エスが苦しんでいる、エスが弱ってきている。息が絶え絶えでいまにも心臓が止まってしまうのではないだろうか? ぼくはどうしたらいいのか。エス、エス教えてください。エス様。
 ぼくがひとりで、めそめそ泣いていると、そこへ老女が足をひきずりながらやってきた。
「ユラ」
「あ、ベカムのお母さん」
「ユラ、あんたエス様を裏切ったね」
「......ぼくはただ、エスにもとのエス様になってほしかった。そのほうがいいと思って」
「そう? でも人の心のなかは見えない。なにがその人にとって良い、とか悪いとか、なかなか回りの者には決められない、だれもそうだから、」
「人はそうなの?」
「だから人は過ちを繰り返すのよ」
「うん、ぼくはどうしたらいいのかしら」
「祈りなさい、ユラ、自分のした事をもう一度振り返るのです」
 エロ、イズ、イッサイ、ガ、ム。
 ベカムのお母さんは磔になっているエスの足に痛み止めを塗っている。
「ほんとうは犬釘のつきぬけている手の平にも塗ってさしあげたいのですが、腰の曲がったこの体では届きません。おいたわしい、エス様」
 呟いているのがきこえる。エスの足にありったけの塗り薬をつけて、ベッカムのお母さんは泣きながら帰って行った。ぼくは坂を下りる手伝いしかできなかった。
 街に向かう体をふたつに曲げた姿が稲光で浮き上がる。あのエスの奇跡の日から腰は曲がってしまったのだ......
 見上げれば、エスの目を閉じた苦痛の、涙とも汗とも雨とも区別できない濡れた顔があった。
 ぼくはもうどうしていいかわからない。あのあとヒリポは、寂しそうにぼくを見て、ユラ、いままでのことは何だったんだろうね、そう呟いてどこかへ去って行った。
 ぼくは......どうしたらいい?
「さくらおう」
 思わず、口にだすと
「なんだ」
 と声がした。びっくりして後ろを振りむくと、櫻王が立っていた。ユリアこと聖も櫻王の脇で風雨を避け頭から覆ったチャドルの隙間から、顔を覗かせる。
「え? まさか」
 ぼくはもう何がなんだかわからず、体中の力がぬけて、そこで地面に突っ伏して号泣してしまった。
「やっと来てくれた」
 櫻王はいつでもそうだ。ぼくが辛い時に呼びかけると、そばで答えてくれる。
「よくやったよ、由羅、もういい。充分役目ははたした」
 櫻王はぼくの頭に大きな手の平をぽん、と置くとそういった。目の前に草履履きの櫻王の懐かしい足指があった。
 それからぼくは役目ってなんだろう、と思った。そう、エスが鬼になるのを阻止すること、でも結局羽化してしまったわけだし、この場合、ぼくの役割は何だったのだろう。
 そんなの今知ったところで、どうにもならないけど。
 ぼくは顔をくしゃくしゃにして聖にしがみついた。
「お願いだ、聖、エスを助けてよ。あのままでは死んでしまうよ。はりつけっていうのは首吊りより残酷だよ。それとも王はなにか魂胆があって見せしめにしているのかい?」
「それに酷いよ、櫻王、あんたって人はひどいよ、あんなふうにエスを騙して、王にする、なんて嘘ハ百ついて、うそつきは泥棒の始まりだからな」ぼくはふたりに交互につかみかかり、泣きながら言った。
 よくやったよ、っていう言葉、それは唯一嬉しかったけれど。そのこと以外は悲しくて、とにかく悲しかった。
 どうして人はこうなってしまうのかな。
 ぼくはいつもその問いにぶち当たる。出会って、好きになって、それなのにいつのまにか間に川ができてしまう。橋を架けようとするのに、橋げたが流されて、舟を出そうにも流れが速くて、それで声を出すのに気づいてもらえない、耳はふさがれて、言葉では伝わらない、届かない想いばかり。
 信じていた。エスの手がエスの目が好きだった。かれの情熱とかれの生き方が好きだった。鬼に変わっていたとしても、エスのままでいいと思った。
 かれが救世主になることが、もう運命で定められていることだと思っていたのに。ぼくは心底、エスに救世主になってほしかったのに...
「救世主になるわよ」
 聖が言った。その瞳は灰色だった。もとの聖だ。エスが見えるようにしてくれたはずだったのに......なんで?
「またひとの考えを......こんなときに、もう終わりのこの時に、エスはもう死んでしまうのに」
 ああ、エスが死んでしまう、ぼくのせいだ。
「いいえ、ユラ。ここからが正念場。今はまだ終幕でないわ。これからどんでん返しがあるのよ。わたしがちゃんとまとめるから」
「ほんとうに?」
「本当よ。わたしもエスが好きなの」
 聖は嘘をつかない。あのヨルダ川の夜にも心からエスに寄り添っていたのは知っていた。
「うん、うん、わかった」
 ぼくは頷いた。涙がとめどなく溢れる。ああ、ぼくはやっぱり同い年でいとこの聖に頼っている。それでもほっとした。彼女の力は大きかったから。
 櫻王は聖を軽々と抱えあげ自らの左肩に担いだ。それから櫻王はぼくに
「さあ、一緒にいこう」
 と言った。
 聖が布の間から十字架を凝視しているのがわかった。
 黒い布を無造作にまとってはいても、聖の姿からエスとは違う白い輝きを感じた。それは陽の光の入らない、水の奥底に棲む生物の白い色とも似ていたし、突然変異という言葉で象徴される白色と表現してもいいのかもしれない。そして櫻王の半分を生成する鬼の血が、黒く怪しい雰囲気をかもし出し、さらに陰影を際立たせ、白と黒という相対する色なのに、ふたりは微妙に混ざり合って、一対の調和とれた生き物に見えた。
 最期をつげる審判官とも思えるし、異空間に通じる扉の番人にも見える、ふたりの後の足跡をなぞるようにぼくは登る。
 ゴルゴの丘は木も草も生えていなかった。むき出しの土が不気味に小高い丘を形成している。はるか昔は若草色の美しい草原だったという。
 しかし、工場から排出された有害な廃棄物を埋め、そのあと上に土をかぶせ、また廃棄物を埋め、かぶせ、と繰り返していくうちに、何十年も草木の生えない不毛の丘が出来あがった。草履をはいていても足につく砂は皮膚に沁みてぴりぴりする。エスの十字架は丘の頂点に建てられ、そしてその周りを降り注ぐ雨が幾筋もの川を作っている。雨水さえ浸透しない汚染された土の上をぼくらは歩いて行った。ときどき滑ってぼくは泥だらけになった。
 ぼくらがそこにたどりつくと、エスは警戒する猫のように目を細く開けた。
 櫻王、聖、ぼく、と順番に見て、
「思い出した。東方の三博士はやっぱりあんたらだったのか」と小さく言った。
 あの馬小屋で生まれ出でたエスは、ぼくがとりだしたパンを金に換え、聖も櫻王も驚いたものだ。
 赤子のエスの金色の目、ぼくはもっと以前からかれの目に引かれていたのだ。そして、赤子の時のことを憶えているというのは、やはり普通の人間ではなく鬼が吹き込んだ種子の効果なのだろう。
 でもあの時、鬼が種子をふきこんだのはユリアだけだったのだろうか?
「エス、つらいでしょう、さぞかし、痛いでしょう」聖がいった。
「人間の自分は痛いと感じる。鬼の自分はその痛みやおれが感じる恨み憎しみを歓迎して増長する。もう駄目だ、と思うのに、鬼の野郎はもっともっと憎め苦しめとそそのかす。その苦しみが力をさらに増幅させるからだ」
「エス、相反する場所にいるのね、そのつらさ、わかるわ」
「ユリアよ、いつまでこれがつづくのだ」
「もう少し、そう、わたしがその引導をわたすから、もう少し頑張って」
「ユリアを肩にいただいているのは王だな」
「いかにも」
「なぜ、わたしをたばかった」
「エスよ、おまえはすでに王ではなかったか」
「わたしが?」
「そう、おまえを尊敬してやまない弟子と、小さくても愛に溢れる王国を築いていたのではないか? 領土はなくとも、その精神が血脈のなかを流れ、体中にあふれみちて、どくどくと熱い情熱の国を」
「弟子......情熱」
 エスはぼくを見たがなにも言わなかった。
「エス。おまえの気持ちを一番わかるのはおれだろう。おれは人と鬼のあいだに産まれたからな。邪悪な思考の誘惑と、本来の自分との間の駆け引きに何度も打ちのめされ、何度となく這い上がって来た者のひとりだ。おまえは鬼に見込まれ、大変な思いをしたけど、でもこれからは世界中でたくさんの人がおまえを敬う。おまえを心のよりどころにする。これはそのための産みの苦しみなのだ」
 櫻王が珍しく、長く説いた。
「そうか、とにかく早いとこやってくれ」
「嫌ね、まるでとどめをさすみたいじやない。あのね、もうすぐお母さんが来るわ」
「おふくろが? ユリアが?」
「そう。お母さんは鬼に通じる分岐点にいて通じることがらを持った人だから、わたしと櫻王と、由羅と、みんなで力をあわせれば、いい具合にいくと思う」
 聖はそうして顔をエスに近づけた。
「ねえ、エス。わたしの目、もとに戻ってしまったわ。」
「そんな、莫迦な」
「エスわたしの目は病気とかでなくてね、わたしの祖先が同じ血で婚姻をくりかえしたことによる不具合だから、ほんとうに治るはずのないものなの。だけどあなたの力で、一時的にせよ見えるようになった。あなたのその手は素晴らしいわ。」
「ああ」
「でもエス、もともと人はみんな不完全だと思うの。病気のもの、生まれた時からからだが不自由だったり、心に欠損があったり。脳がちょっと人と違う速さで動くので、人とうまくつきあえなかったり、わたしは、それでいいんではないかと思う。無理に標準をもうけたり、それに合わないから異常と決めつけたり、みんな同じにすることはないのでは。この世のたくさんの人がそれぞれで、傷があって、ちょっとわけありの迷える子山羊でいいと思うの」
「ベカムの母を治したのが、まずかったと?」
「そうね、いえ、そうではないけど、エスはちょっとあの時がんばりすぎちゃったのか、な。物体の性質を変える力と、人の体を変える力は全く別の事柄だと思う。病気はだれもが避けられない苦しみだけど、人は自然治癒能力も持っている。マナンはいくらでも出してもいいけど、人の人生や運命にかかわることに、悪戯に係わりあうことは、その人の全責任を負うということだし、大変なことだよね。たぶん、一線を越えてしまったのね。それは鬼にとっては歓迎だっただろうけどね。エスが自分の力を過信して、野望を持った瞬間が羽化とぴったり合った」 
 エスの顔が少しずつ、穏やかになっていく。
「ユリアは少しも見えるようにならなかったのか。あれは見えたふりだったのか」
 エスは心底がっかりした様子でいった。
「いいえ、エス。わたしあのあと何刻かははっきりと、そう子どもの頃くらいはっきりとみえたのよ。おかげでずっと見たいと思っていた地図を見ることができた。でもね、わたしにとっては見えないほうがいいの。見えないとわかるのよ。いろいろな人の光と陰があってね。あなたの陰がわたしには良く見えた。あなたの力があってもどの人の陰も消す事はできない。」
「......陰か、ユリア、わかったような気がする」
 エスは、ぽたぽたと涙を流した。
 伏しめがちの目はもとの金色にかわっていた。それに背中に翼が見える。あの版画とは違う真っ白な翼。エスはこのとき本当に神に近づいたのだろう。そしてかれは孤独な一艘の船。
 聖も泣きながら、エスの脛をさすっていた。それで幾分楽になるようだった。
 
 自分の幸せを願うことはそんなにいけないことなのだろうか。
 大それたことを望んでいるわけではなかった。
 ごくごくありふれた日常。
 ただ君がいてくれればよかっただけなのに。

 そのとき、ゴルゴの丘を一人の女性が丘をのろのろと上がってきた。雨に濡れないように頭からチャドルをかぶり、両手でトーガをたくし上げてよいしょと掛け声をかけて登ってくる。その女性は怒ったように肩を強ばらせていたが、やっと十字架のそばまで登ると、両膝に手をあて下を向き地面を睨んで、はあはあ、息をしていた
「ああ、疲れた。」
 そして顔をあげた。
 エスの母親のユリアだった。
 ユリアは絵でみたとおりの顔だったが、きょうは傲慢な表情ではなく、少し愛嬌があった。エスのいたずらっぽい表情と似ていた。ユリアはエスに近寄ると
「やだね、この風来坊はどじ踏んで」
 と、ばしっと足を叩く。
「おふくろ......」
 エスが苦笑する。
「あんたは一攫千金をねらうタマでない、っていつもあんなに言っているのに、あああ、まったく人騒がせな」
「ご、ごめん」
「で、なんなの、あたしに何をしろっていうの。このロクでもない息子の尻拭いはもうごめんだからね」
 と、ユリアは腰に手をあてて、今度はぼくらの方を向く。
「ユリアさん、エス様はこれから、命をおひきとりになります」
「ふん、やっぱりね、だから何よ。こいつの悪行が、母親の責任があるって、そういうことなの? それを言いたいの? いつもそうよね、何かあると『母親の育て方が悪かったのでしょう』ってみんなそう言う。そうやっていわれた女がどんな気持ちになると思う?」
「わたしはエスを普通に育てたわ」「それに、子どもに先に死なれる母親の気持ちがあんたわかる? こんな子だって」
 ユリアは子育ての失敗をせめられると思ったのかもしれない。
 自分は正しいことをしてきたという自信で講演して、国中をまわっていたのだから、エスが磔になったことは最悪の結果だろう。
 しかし泣き声だった。口は無理に強がりを言おうとしていて歪んでいた。ユリアはよっぽど慌ててきたんだ、とぼくは思う。
 口紅がはみ出ていた。まるで道化のように怒り泣きしているユリア。
「安心してください、エス様は、一回は死にますが、復活なさるのです」
「へええ、そりゃよかった」
 と袖で鼻をかむ。まったく信じていない様子だった。
 ぼくは考えた。復活。つまり生き返ることだ。それはほんとうに出来るのだろうか?
 聖の力で? そんな事が? いやいくら聖とて、一度止まった心臓を動かすなんとても無理だ。
でも、もし、『生き返った』と誰かに、思わすことができたら?
「ですから、ユリアさんの力をお借りして、そのときにエス様が本当に心も自由になれるように、真の救世主になれるように」
「だから、回りくどいものいいだね、どうするのさ」
 そう、それなら出来るかもしれない。たくさんの人に復活の姿を目撃させること、そのことでエスの復活が真実ということになる。ぼくが考えごとしている間に聖がユリアの耳元になにやらひそひそと話す。
「手を握っていっしょに立ち会ってくださればいいのです」
 その時、にわかにエスの息がとぎれとぎれになる。ぼくは......ぼくの心臓も止まりそうになる。
「ああ、」
 みんなが息をのむのがわかった。。
「エス様ごめんなさい、ごめんなさい。ぼくが悪いんです、罪を償わさせてください」
ぼくはエスの足元にひれ伏し、その足に口づけした。そうしてど
うなるものではないけれど、そうするしか出来なかった。その時エスのかすれた声が聞こえる。
「ユラ、このまえも言ったけど、おまえには裏切っていいんだ。裏切りだって、愛だよ」
 エスが唯一自由になる人差し指でぼくの髪にふれた。エスの手があの時と同じように耀いていた。エスのマナンを出せる輝く手が、今また! 復活したのだ。
 ぼくはエスの顔を見上げる。
「裏切りが愛?」
 エスの金色の目がちょっと笑う。
「そう、愛だ。ユラ......」
 がっくりとエスの首が折れた。
 一瞬だけ、雲の切れ間から太陽の光が差し込んで、エスへ階段を作ってくれたように見えた。
 でもぼくはエスが死んだのがはっきりとわかった、
 ぼくは「わああああああ」と泣きながら丘を走り降りる。
 エスが、エスが死んでしまった。ぼくのせいで......ぼくが密告したから!
 磔になって......
 エス、エスが、
 ああ、役人を呼ばなくては。☆印に知らせなくては、ぼくはわれを忘れて走った。
 エス、エスを。早く磔の、あの十字架から降ろして、エスの体を、エスの髪を、エス、エスのその手をもう、輝くことはなくても釘から解放しなくては。エスの穴の開いた手。エスの空中を闊歩できる足を。
☆印はぼくに引きずられるようにやってきた。
雨は上がっていた。丘の上の三人の人影が遠くからでも見えた。十字架は少し傾いてそそり立っていた。
「おい、降ろしたぞ」櫻王がすでにエスを自由にして白い布ですっぽりくるんでいた。
「誰だ、勝手に」
「おれは櫻王。死者に対する礼儀だ」
「しかしそいつは本当にあの罪人なのか、顔を確認させろ」
「かまわないが、酸性雨に晒されたから、かなりの腐敗があるぞ」
 ☆印は中腰になり、おそるおそる顔の部分の布をまくった。顔がもう溶け出しているのか、めくった瞬間、死臭も漂って来た。
「うむ、たしかに罪人と同一人物だ」しかし顔に自らの顔を近づけ、息をしてるかどうか確かめることはしなかった。それほど爛れていたし、臭いがきつかったのかもしれない。
「よし、死体はおまえたちに任せる。罪人の墓地に埋葬しろ」
「ああああああああ」
 ぼくは慟哭した。お墓に埋めたらもうおしまいだ。ぼくはただ、もう悲しくて。
 復活なんて嘘ばっかり、そう思った。死んじゃった人間が生き返るはずない。父上もそうだった。母上もそうだった。生き返ることなんてないのだ。いくら願っても。いくら祈っても。
 櫻王は布でくるんだエスの遺体を肩に担ぐ。櫻王はいつも嫌な顔ひとつしないで、力仕事でもなんでもする。そうしてしっかりとした足取りでぬるぬる滑る丘を下り始めた。エスの母のユリアは呆然とした面持ちだが頭を上げて涙をこらえついていった。聖は櫻王の脇を、着物の袖を握って歩いていく。
 ぼくは足をひきずりながら、なんとか列の最後尾に連なった。墓地は町のはずれにある。ゴルゴの丘をくだり、北の方へむかって半里ほど行く。そして、墓地にはすでに棺おけ屋も兼ねる墓堀人二人が来ていた。二人はユリアさんに代金を請求したが、首を横に振られ、こんどは☆印に交渉している。ぼくは何も考えられなかった。心が空っぽだ。
―心に何もないってあると思う?
 いつか櫻王にきいたことがある言葉が、今やっとわかる。今がそうだ。心になんにもない。エスが死んでしまった今。絶望しかない。
 エスは櫻王の手で棺おけのなかにそっと横たえられる。
 ベカムのお母さんがそこへ花を持ってやって来た。ヤダヤの国ではもう花は咲かないと言われていた。しかし、数年前放射能で汚染された土地にまばらに草が生え始めると、そこにわずかだが花も咲き始めた。芥子の花に似ているが奇妙な形の花びらだった。ベッカムのお母さんはきっと苦労してその花を探したのだろう。手に土がたくさんついていた。
 花がエスの棺おけにそっと入れられると、蓋が無情に音をたてて閉められる。
 エス、エスお願いだ。奇跡をおこしてよ。ぼくは泣きじゃくりながら祈った。ユリアさんと、櫻王と聖と、ベッカムの母さんと、ぼくが、かわるがわる土をすくっては投げ入れ、棺おけを埋めて土と一体化していく。ひとすくい、ひとすくい、この土くれがエスと皆との別れを決定づける。ぼくは何度も何度も祈ったけれども、エスに届いたのだろうか?
 いつか不死鳥のように蘇るエスを心に描いて何度も祈ったけれども......
 そのあと、ベッカムのお母さんの家に誘われるままに従った。エスのお母さんのユリアさんも来た。櫻王と聖は途中でいなくなったけど、ぼくはどうでもよかった。家についてもぼくは打ちひしがれたままで、お母さんが戸棚から、恭しくマナンを取り出してきた。
「これはこの前、ユラとヒリポが出してくれたものをちょっと食べ残したから、もったいないからとっておいたら、増えたの」
 といって大きなマナンを出してきた。子どもの頭の大きさくらいに膨らんでいた。
 ―ユラ、愛は増えるんだ。
 一瞬エスの声がする。
「あの子のいいところは気前のいいところよ。あたしじゃなくて亭主に似たのね」
 とユリアさんが泣きはらした目で言ったので、ぼくら三人はそのことばを合図に腰をおろした。エスとのお別れのごはん。でもぼくはマナンを切り分けられて、手に乗せてもらった時またどうにも悲しくなってしまった。温かくて、ほんわかしているマナン。
 エスがもういないなんて、信じられなかった。それも自分のせいで。どうしようもない最低な人間の由羅。涙がまた溢れてきた。塩辛いマナンだ。
 ぼくはこれからどうやって生きていけばいいんだろう?
 そのあとぼくは雨に打たれた疲労と精神的な打撃で、いつのまにか机で眠ってしまったらしい。
 翌朝、パトロの大きな声で目がさめた。
「大変だ!」床をどんどん響く足音。
「ユラ、いるか、ここにいるだろう?」
「う、パトロ、どうしたの?」
「エスが、エスがいるのだろう?」
「え!」ぼくは飛び起きた。エスが本当にここに? 目をこすって周りを見る。チャドルかぶって丸くなって眠っているユリアさんはわかったけど、エスの雰囲気は感じられない。
「どこ? どこなの?」
「いや、ここにいると思ったんだが。いないのか? ゆうべ、エスが亡くなったことを聞いて、エスを偲んで一杯やっていたらな、エスが......来て、亡くなった本人がよ、じゃああれは幽霊か?」
「ええ、幽霊?」
 やっぱり成仏できないんだな、とぼくは思った。
「じゃあ、恨めしそうなの?」と尋ねる。
「それが、幽霊にしちゃ爽やか系で、なんというか、とにかく立派なんだ」
「立派?」
「おれはうまく説明できない。来いよ。マダイだったら、もっとうまく説明してくれるから」
 ぼくはパトロに腕をひかれるままに小走りでついて行く。驚く事にパトロンや弟たちはあの華僑のチャン大人を慰めるとかいうのを口実に、あそこで宿を取っていたらしい。と、いっても物置の隅を借りていたみたいだが、それでもひとのいいチャン氏に感心するばかりだ。
 そして物置にはすでに、印刷道具が持ち込まれ、マダイが新聞らしいものを作っていた。紙だ! 金剛石より高いといわれている紙をマダイはどこから調達してきたんだろう。
 重ねられた新聞を一枚手にとってみると
『エスの復活!』という題字がまず目にとびこんできた
 ぼくはむさぼるように読んだ。
「ゴルゴの丘で磔になったエスかっこ三十二かっことじるは、出血と疲労で死亡した。そのあと、罪人用の墓地に埋葬された。それは証人五名と墓堀人ならびに棺おけ屋が証明してるが、なんと、その後エスの姿をみたものが大勢いることが判明した」
「本当なの? ねえマダイ本当なの?」
 ぼくはマダイの印刷用の液で汚れた体に飛びつくと、太った体を太鼓のように叩いてしまう。マダイは大きく頷く。
「ユラ、先も読んでくれ、アンドーレやオスカは字ぃ読めないから」
 パトロの促す声で、ぼくは震える手を押さえることができず新聞をがさがさ言わせながら、かろうじて読み出す。
「エスの姿を見たのは、まず山の手に住む、チャン大人」
 ぼくが顔を上げると、
「この館の主」とパトロが注釈を入れる。
「また、チャン氏の庭に居候をしていたパトロ他弟子三名もその姿を拝んだ。まるで生きているように、生気に溢れ白く長い着物をきて、頭上に茨の冠をかぶり、優しく微笑んでいたという」
 その記事の下には挿絵があった。エスが微笑み、頭のうしろには後光が円くさん然と耀き、脇侍のごとく天使がエスを祝福してラッパを吹いて、空には二羽の鳩が飛んでいる絵だった。
「うわああ、この絵うまいね」
 ぼくがいうと。謄写版を押さえていたオスカが、
「ぼく、ぼくの絵だよ」という。
 オスカがこんなに絵が上手いとは、いやそれにしてもエスの顔はそのままだったし、現実に見なくてはこのように描けないだろうことを考えると、この壮麗な姿はどうみても幽霊ではないだろう。
「ユラ、続きを読んで」
 感極まって喉が詰まるぼくに、マダイが催促する
「そこまでなら、懇意にしていた人のところへ、死んだ後お別れを言いうためにエスが夢枕に立ったのだと思えばいいのだが、そのあとで驚くべき事実が判明する。じつはエスがその足跡と功績を残した村にも、エスの姿を見たものが現れた。特派員記者のヒリポによると、方々の村でエスが神々しい姿で出没しているらしい」
 どうも文章が変だが、この記事がまったくのでっち上げではないようにぼくは思えてきて、
「マダイ、エスが生きかえったのは確実だね?」
 とまた涙腺が緩み出してしまう。
「そうか、ユラはまだ復活したエスを見ていないんだね」
 マダイが手を休ませずに言った。次々と新聞を印刷している。
「うん。でもたとえ見ても信じられないかもしれない。あの、その、最後の顔が、まだ」
 そうだ。あの時のエスは苦痛の顔だった。ぼくはとたんに苦しくなって、その新聞を持ったまま、うな垂れて出て行く。
 ぼくはきっとたとえ幽霊でもエスに会う資格はないのだろう。エスのことを死に追いやった張本人なのから......泣きじゃくり、どこに向かうでもなく、歩き出す。
 自然と足はゴルゴの丘に向かっていた。
 だからぼくだけエスに会えないんだ。エスはぼくを恨んでいるのだ。エスはぼくのことなど赦すわけない。あの十字架に磔にされた苦痛や、エスの夢を壊したぼく。
 エスの希望も幸せも打ち砕いた、裏切り者のぼく。足は自然にゴルゴの丘を目指していた。みんなが見たエスはきっと、生前に感謝されるほど、尽くした人のところにだけ出てきてくれる限定版なのだろう。ぼくはもう蔑まれているわけだし。
 ぼくはエスと逢うことは出来ない。エスを裏切ったのだから。
 ゴルゴの丘に近づくにつれ、たくさんの人が集まってくるので驚いた。
 ひとり、ふたり、三人......まばらな人影が、だんだん列をつくり、あるいは固まりとなって、年老いたもの、若い人、男、女さまざまな人が集まってくる。町の中は老人や病人、子どもや弱い女の人しか住んでいないので、どうやら、町以外の近隣の村や遠くから来ているのかもしれない。その黒い人影がだんだん近づいてくるに従い、ぼくはたくさんの人の数と多様な服装、そして一番意外なその表情に驚愕してしまう。
 みんな笑っている。みんなにこにこしている。そして穏やかに、嬉しそうに、さらに興味津々の顔で、
 ああ、人々の間をヒリポが走ってくるのが見える。小脇に新聞を抱えている。いつものヒリポだ。小気味よい歩きで、人々に新聞を配っている。
 かばんはもちろん、籠や、大きな荷物を背負ったり、頭の上に家財道具を重ねて歩いている人もいる。その服装もとりどりで、腰巻きだけの男や、長いガウンをきたもの、チャドルをまとった女性、ターバンをまいたもの、草で編んだ傘をかぶった男、ロバを引いたものや、鶏をかかえたもの、人がどんどん増えてくる。犬も猫も鸚鵡も。このヤダヤの国だけでないのだ、世界中から、エスの磔になった十字架を見るために人々が集まってくるのだ。十字架をめざし一心不乱に歩いていく。
 それもどんどんその数が倍速で増えてくる。そして、
「エス様」
「エス様、わたしたちのかわりに」
「エス様、ありがとうございます」
 口の端には笑みをうかべ、目を潤ませながら。ひとりひとりそんな言葉を言っているのが聞える。みんな陶酔している表情だ。ゴルゴの丘に来ることだけを、せつに願っているそういうひたむきな足の動きだ。
 どうしたんだろう? エスが? エスが奇跡をおこしたのか? ぼくは人々が周囲一体をとりかこみ様々な色の肌と服が丘を文字どおり多い尽くし、雑多な色の洪水になっているのを呆然と眺めた。マダイが新聞を運んでいる。パトロンは屋台を引いてきた。弟のアンドーレやオスカが焼きそばを作り始めている。
 喪服を着たユリアはサイン会を始めた。
 何だ。何が起こった?
 そこにベカムのお母さんが腰を曲げて歩いてきた。
「ベカムのお母さん!」
 ぼくは地獄で仏にあった心境だった。
「ああ、ユラ」
 お母さんは一息いれてゆっくりと体を起こす。
「みんなどうしたんです? ここでなにがあるんです?」
「ユラ、エス様が昨晩王の枕元に立たれたんだよ。自らは世界のすべての民のためにこの命を差し出した、と言ったそうだ。さらに王に人としての心を諭し、王はエス様の復活された尊い姿を目の当たりに見て改心されたんだ。国中に惠みがある。男たちは戦からもどり、王のお墓づくりはとりやめ、王は富める者の財産を貧しいものに分け与えるように、お触れを出したんだ」
「本当ですか?」
 あの王が? あの暴君といわれるヘデロ王が? エスの愛の奇跡だ!
「ベカムも帰ってくるよ」
「よかった......」」
「みんなエス様に感謝をしたくて、ここに来ててるんだねぇ」
 ぼくはその時、ずっと心に引っかっていたことにたどり着いた気がした。
 鬼の種を頭に植え付けられたのは本当にエスだったのか?
 王はどうなんだ? 王には鬼の種子は宿っていなかったのか? いや。全ての人の心のなかに鬼がいて、その鬼を大きく育てるものと、手なづけるものと、押さえつけるものと、いろいろな人がいて、でも、誰もが鬼の種子から芽生えた蔓に、がんじがらめになったときに人は人でなくなる。エスは、自分でその絡みついた蔓を解き放って、さらに王の蔓をあの輝く手と情熱で粉々に燃やしてしまい......羽ばたいたのだ!
「ああ、エスが、奇跡を」
 そうしているうちに丘はたくさん国の人々で一杯に埋め尽くされていった。どこからともなく唄が流れて来る。
 自由を、愛を、再びこの地球に緑の大地を、そして澄んだ空と、清らかな水を、子ども達のために、みんなのために、さあ、今こそ自分たちの自由を、愛を、翼を広げ...望みを、未来に向けて......信じよう、すべての人の真心を、そして、手をつなぎ、愛を増やし、育てよう、みんなの声が唱和される。丘はますますその裾野だけでなく周辺の荒地や、街道はるか先の砂漠にまでどんどん、人でいっぱいになっていく。
 そしてその瞬間のことをぼくはきっと忘れないだろう。
「あ、錦斗雲だ」
 虹色に輝く錦斗雲に乗った白い服のエスが皆に手をふりながら、丘の上に忽然と現れ、一瞬ののち、天を指差したかと思うと、太陽の光が滝のように集まった円錐形の中をさあっと上昇していった。
 わああああああああああ
 ―復活だ
 ―復活、エスの復活
 ―救世主よ
 ―エスさま 
 口々に歓喜で叫ぶ人々の中、ぼくは興奮の坩堝の芯でまた孤独になったことをかみ締めていた。エスはとうとうみんなのエスになった。

「エスは重い腫瘍だったのよ」
 と聖が言った。そうだったのか。あの具合の悪そうだったのは。
 なにも食べ物を口にしないで苦痛に耐えていた。
「たぶん磔にならなくても、そう長くは生きられなかったと思うわ」
「うん。そうかもしれない。でも、ぼくは......やっぱり磔になったのはぼくの責任だと思う。エスは、鬼になったんでしょう、あの、王になる、という切な願いが叶えられそうになったとき、羽化して......でも鬼に羽化したら、救世主にはなれないし」
「彼にかけた暗示があまりに強く効きすぎて、彼は鬼として与えられた力を自分なりに効率よく使う術を身につけたわね。マナンや魚や。でも最期のあの復活は、鬼でなきゃ出来なかったと思うけどね。死んでも精神体だけ温存して復活させ、他の者の脳に映像を投射できる力。それも天使や鳩の背景つきだもの。エス、頑張ったわよねぇ」
 もちろん聖や櫻王が手を貸したのだろうけど。
 聖の力、多くの人を楽しい気分にさせる幻を創る力。
 あの錦斗雲も活躍してた。
 ぼくは天を仰いでしみじみ言った。
「エスはほんとうに救世主になれたんだなあ」
「うん、由羅」
 聖が、ほっとして言った。
 砂漠の小さいオアシスでぼくらは休んでいた。櫻王がむこうで駱駝と遊んでいた。駱駝は櫻王に玩具にされている。聖はちらっと見てこう言った。
「櫻王は最期の時エスに感謝していたわ。由羅に思いやりを持ってくれてありがとうって」
「え、なんの話?」
「エスが最期に、由羅、裏切りは愛だよって言った時のこと」
「ああ。」
「櫻王は由羅のことをほんとうに......」
「え、何?」 
 でもぼくはこのことをまた忘れてしまうのだ。エスのことも、ヒリポのことも、ベカムのお母さんのことも。これからぼくらはたぶんまた時間をかけて旅に向う、いったいどこに行くかはわからない。でも、これだけは確実なのだ。ぼくはその過酷な旅の行程で今回のことを忘れるのだろう。
「忘れることが由羅にはいいのよ、でないと死んでしまう」
 ぼくの考えを読んで聖はまた慰めてくれる。
 そうかもしれない。でもぼくは悲しかった。エス、世界中の人は忘れないだろう。でもぼくは忘れるのだ。それがぼくの選んだ道。
 櫻王と聖と歩いていくために。

                                        完