第五章  嵐

 エスの瞑想しているそばの木は枯れそうだった。見えない邪気でも出ているのか、枝から葉が滝のように落ちている。いつもは静かに流れている川さえ、怒涛のごとく、渦巻いている。空は暗雲が近づき、すき間から稲光が轟音とともに、地を妖しく照らす。
 嵐の前に鳥も虫もどこかに避難していた。地面はひび割れ、底のない暗闇から得体のしれないものが、うようよと出たり入ったりしている。エスの影は長くまるで蛇のようにうねっていたし、しかも瞑想をしているというより呪詛しているような顔つきであった
「エス様......」
 ぼくが近寄ると、エスは目を開けた。大好きだった、やんちゃな金色の目は濁った泥色になっていた。それでもぼくは片鱗がどこかに見つかることを期待した。ヤダヤ国を良くしようとしていたときの、あのエスの情熱を、あの夢を。あの希望のかけらがどこかに隠れていないかと......。
「ユラか」
「はい。王はお認めになったのですね、エス様の力を」
「うん。王は、明後日、自分は退位し、わたしを後見すると言った」
「エス様おめでとうございます」
「ユラ、めでたいのか? そう、たしかに夢はかなうのだが、なんだか、おかしい」
「おかしい、というと?」
「温かかった体中の血が、氷のように冷たくなった感じだ」
 エスの顔がゆがむ。
 額にしわがたくさんできて、エスは人相が変わってしまって、これまでの神々しい無欲な顔が、いまでは、禍々しい、髭やもみ上げばかり目立つ、卑しげな男になってしまった。
 どこがどうというのではなく、なんとなく違う。言葉ではうまく表現できないけど......
 ぼくは小石を拾うと、恭しくエスにさしだした
「エス様、お願いします」
 マナンを。
 マナンはさっき皆で分け合って食べてしまった。それにエスのあの手にもう一度触れたかった。
 あの時のエスとぼくが、ビリビリとひきよせられ繋がった、あの感覚を味わいたくて......エスが本当に変わったのか、試してみようと思ったのかもしれない。
「ああ......」
 エスはぼくの両手を包みこむように握った。エスの手は冷たい。瞬間、手がぞくりとした。でも、すぐに震える! エスの手はまだ石をマナンの変えられる! ぼくは歓喜した。エスが変わってしまったという考えは間違いだった。ぼくの心の中がわかったように、エスはにやりと笑った。
 エスがぶるぶる震える手を離す。ぼくの手の中でなにかがもぞもぞ動く。あの時と同じだ。そう思って、そっと手を開く。
 そこにはマナンでなく、だれかが食べてはきだしたような、汚いくさい粘っこい固まりがあった。
「わあああ」
 ぼくはすぐに投げ捨てた。それは地面に落ちると、あっというまに石に戻ったのに、手は腐った臭いがこびりついてしまっている。ぼくは手に、砂をこすりつけた。
「エス様、ひどいです。こんないやなものに変えて」
「ユラ、わたしの奇跡は、望んだ者に似合ったものが出るのだ。それ、これではどうだ」
 と片手で手招きすると、川から魚が飛んで岸にぴしゃっと落ちた。そいつは尾を動かすこともしないで、すぐにぐったりと腹をさらす。
「魚だ」
 今度こそ本物と思い、近づいてとろうとして、おもわず手をひっこめた。顔がふたつの奇形の魚だった。ガラガラ湖の湖畔の、半世紀稼動していた、原子力発電所が垂れ流した放射能に汚染された排水が、この川にも流れてきているのか。
 ぼくの頭は混乱する。
 以前、ぼくは知っていた。
 制御ができずに燃料棒が融け出した原子炉と、未来永劫放射能を排出しつづけるあの廃墟のこと。あの湖の奇跡の時は、この事実の記憶にふたをしていたのだ。
 現実はどれだ。
 どれが真実なのか。どれが虚構なのか。どれがエスの造り出したものだ?
 救世主が来て、救ってくれるなんて......世迷言だ!
 神様! なぜあなたはこんな試練をおあたえになるのです?
 ぼくに真実を見せてください!
 ぼくに見合ったものは、この魚なのですか。
 エス様!
「エス様ぼくは、......ぼくの、どこがいけないのですか?」
「ユラ、ひとはみんな疑う。人をねたみ、人を恨み、憎む。それはいけないのか? わたしはこう答えるしかない。そんな感情をいくら、悪だとか醜いとか、恥ずかしい事だ、とか思っても、だからどうだ? 人はずっと、この世の始めから、生まれついて、そういうものだ。そういったものを大なり少なり持って、上手くごまかしてきた。だから、それに似合った人生をそれぞれ送るだろう。 愚かな者は愚かな人生を。小賢しい者は小賢しい人生を。善良なものは、そんなものは未だかつてみたことないが、善良な人生を送るのだろう」
「エス様は変わった。変わってしまった。どうして『ユラ、愛だ』といってくれないのです? この世のすべては愛だ、とあの時そういってくれたではないですか。愛があればこの世はよくなると、そういったじゃないですか。人は皆、愛を持つ事で、ほかの人に優しくなる。愛は次々と広がり、どんどん増えて、すべての人が幸せなる、と言ったじゃないですか」
「愛こそ、傲慢ではないか? 自分が愛していると同じだけ相手に愛を求め、愛を大義名分に相手を縛り、愛を隠れみのに傷つけあうだろう」
「どうして? これまでは愛を、愛することを説いていたではないですか」
「言っただろう。わたしはより大きなこの力を得るために、善行をしたのだ。いや違うな。たった一回マナンを恵んでもらったからといって、人は感謝したか? それは人のためになったのか? 働きもせず、動こうともしない怠慢な人々におかしな期待を抱かせただけではないのか? 『もう少ししたら、エスが来る。だから、待っていればいい、それが一番楽な方法だ』みんなこう考えていた。だから、さも当たり前のようにマナンをもらい、あとは同じだ。なんら意識の変革はない。かえって依存的な感情を植えつけただけだ。ユラ、これでもわたし私は人のために、良いことをしたといえるのか?」
「でも、ベカムのお母さんだって」
「そうだな。しかし、あの老女が、この先も永遠に、病気にならないと言う保証はない。今は治まっているが、またどうなるかわからない。現に、無理な照射で体に負担がかかり、実際の年齢より体が老化した」
「そんな......ではユリアの目は?」
「......わたしのしていることが、すべて計算だとしたら? 人を欺くための、そう、こんなことは序の口にすぎない。わたしの目指すものはもっと悪だとしたら? ユラ、おまえはそれでもわたしを信じる、と言うのか?」
「ぼくは......」
「信じると言えるのか?」
「エス様はすでに鬼になったの?」
「わたしの母親に鬼の種をふきこんだやつは、わたしがもっと早く悪に目覚めて、この国に邪悪を、憎悪を蔓延させることを期待したみたいだな。この超人的な力があれば、ヤダヤ国を簡単に意のままに操ることができると考えたんのだろう。ところが、なぜか予定外に羽化が遅くなってしまって......そんなことより、どうだ。わたしなんかより、もっと残酷で、腹黒い、戦いを好む王が、普通の人間のわりにちゃんと悪の道をまっとうしているじゃないか。人間なんてそんなものだよ。なあ、ユラ、あの王はおれが産まれる時も、男の赤ん坊は皆殺しにした。そんな悪党さ。人っていうのは、一番強くてあくどい存在なのだ」
「その王に、エス様の力が利用されてしまう?」
「ああ。わたしは王が敷き並べためた、茨の道を歩むだろう。王のために。自分のために。しいてはそれが、人々のためになるのだ」
「みんながこんなに苦しんでいても?」
「それは人である王が、やってきたことじゃないか。鬼のわたしではない」
「エス、そうだよ、あいつはあの王は人の風上にもおけない野郎だ。いや、王っていう地位が悪い。人を堕落させる。エス様、だから、もうやめようよ。王になるのなんてやめて、ぼくと一緒に行こうよ」
「行くってどこへ?」
 一瞬エスが泣きそうな顔になった。
「それは、そうだ、ニライカナイ、みんなが自然に自分らしく暮らせる場所へ、」
 ああ、ぼくは昔これと同じ台詞を吐いた。しっかり憶えている。ぼくは、ちっとも実行できないくせにそんな絵空事ばかり言っている。
「莫迦。ユラ、ニライカナイっていうのは理想郷だ。そんなのあるわけない......たぶんな。どこでだって人は同じだよ。同じことの繰り返しだ。繁栄、栄華、慢心、滅亡、黎明、発展、繁栄、栄華...この順番を忠実に守っている。それにもうこの手は汚れてしまっている」
 手、エスの手、黒い手。エスの手の指のまたから、糸のようなねばねばしたものが、手のひら全体に網目のようにひろがり、あのガラガラ湖の足にこびりつく粘っこい膜が、エスをがんじがらめにしている。
 まるで、まゆをつくるように。
 いや、羽化した直後の液体だ。
「エス様、王になるのは、やめようよ、いや、やめてください。お願いです」
「いや、もう後にはひけない。王に極めて共鳴している自分がいる。欲望の権化となった自分がいる、次々と人間を殺戮したい。次々と人を陥れたい。次々と壊し、次々と呪い、それが可能なわたしは選ばれしものなのだ」
 エスは背筋を伸ばしてきっぱりと言った。
 ぼくはエスがもう遠く離れたことがわかった。
 ユラ、おまえは他とちょっと違うね、といったエスはもう影も形もなく消えうせてしまった。どうしてこうなってしまったのか。大切なものを失った。
 いや、最初から、ぼく達の間には何もなかったのではないだろうか。
「エス様お迎えにまいりました」
 パトロが猫なで声で、もみ手をしながら現れた。腰には酒瓶が吊り下げられている。すでに呑んでいるらしい。おまけにどこで調達してきたのか寸法は合ってないが、まともな服も着ていた。腹が醜くのぞいている。
「さあ、今日は呑み明かしましょう。明日は祝宴! 今日は前夜祭。目出度い事です。」
「ああ......そうだな」
「ほんとうに目出度い。エス王さまのご誕生!」
 そのことばにぼくは息をのんだ。
「エス、ぼくは信じていたい!」ぼくは叫んだ。
「ずっと、信じていたいんだ!」
 一瞬エスの目がぼくを、あの金色の光で射たような気がしたけど、それも、すぐ泥色になってしまう。初めエスと会ったとき、この人は孤独だと思ったけど、今はたくさんの亡者が取り囲んでいるのがわかる。そしてその中心には、ひとつ上段から見下ろしている鬼の目があった。
 エスがパトロに導かれ会場に向かうとき、黒い燐粉がふっと舞った。
 ぼくは一人取り残され、重大なことにはっと気付いたのだ。
 エスは自分が生まれた頃に、男の赤ん坊が皆殺しにされた、といっていた。
 それはマダイにも聞いたような気がする。
 それは「救世主が生まれる」という噂が国中に広まり、期待され、王がそいつに自分の地位を奪われる事を恐れたからだ。その時の王と今の王が同一人物いうことは今の王は、いくら若くして君臨したとしても三十どころか、五十すぎて六十に近いはずだ。
 どうみてもあの櫻王はそのヤダヤ王ではないということだ。それに、三博士のあの時からぼくらは、エスの鬼退治の作戦をしてきたわけだし。すると、あの一室やあの演出も、嘘っぽいと考えられる部分がある。つまるところ、エスが王になる、と約束されたのは実は、つくりあげたできごとで、本当は......
 ......頭がこんがらがってきた
 整理しよう。あの時、兵隊がベカムを連れていって
 ベカムといっしょに引き縄でエスを引きつれ、さらにぼくも引きつれ、
 でもあの宮殿についたら、まてよ、あそこはほんとうに王宮なのか?
 よし、行ってみよう。あそこにいけば何かわかるはずだ。
 ぼくは前にも通った道を思い出しながら歩いた。
 確か下町を抜けると、山の手のこの塀に沿って歩き、丁字路を左におれ、そこの家の窓が東洋風だったのを憶えている。小さな排水路を渡り......
 ぼくは山の手が都市として、清潔なことに感心したのだ。その先の行き止まりが寺院で、その右側に広い館があった。その館だ。そこだ。そこは門があり、王の紋章の旗が翻り、鉄の柵がぴたりと閉じ、あの時はここが王宮だと、勝手に判断したのだが、今考えるとヤダヤ国の王宮のある都はもっと遠くのはずだし、別邸にしては風雅というより実用的な感じだ。
 その館の門の両脇に見張りが二人立っている。見張りは昨日と同じく武装した兵だった。
 ぼくが近づくと、
「何者!」と槍をかまえ威嚇した。
「あの、ぼくを覚えていませんか?」
 間抜けな問いだが、こう聞くしかない。王はご在宅ですか? とは聞けないだろう。
「怪しいやつ、名をなのれ」
「ユラといいます」
「おまえは、どんな部署に配属になっている。この国では成人した男子はすべてどこかの部門に配属される」
 部署? そうか。ヒリポが言っていたな。通常の男は兵隊になり、あるいは身分が低い、反対分子や前科ものは、その他の雑役や奴隷になる。子ども以外はすべてが王のために働くのだと。
「うーん。なんといえばいいかな、エス様の弟子ですけど」
 次の王の弟子なら、何かしらの反応、またそれにあった待遇があると思えるが、ぼくがこう答えると、もうひとりの兵は、これは益々胡乱な奴と思ったらしく、くぐり戸から中に引っ込み声高に上官を呼びに行く。そうだ。もっと上役ならいろいろ知っているかもしれない。などと考えているあいだに、残ったもう一人の兵にさらに質問を浴びせられる。
「何歳だ」
 子どもにみられたのか。
「年齢は不詳です」
 一度こう言ってみたかったのかもしれない。事実だ。しかしこの答えは彼を刺激したらしく
「わしを舐めているのか? 農民の出身だと軽んじているな」と顔が赤くなる。その時
「なんだ、門番。騒がしいぞ」
 くぐり戸から現れたのはあの星印の上官だった。
「あ! あなたは」
「きさま、誰だ?」
「ぼくに見覚えありませんか?」
 上官はぼくに近寄った。にんにくたっぷりの料理をたべたのか体全体がにおう。汗臭さとあいまって、なんともいえない刺激臭だ。うっと、口で呼吸する。
「そういわれてみると、最近見たような」
「そうでしょう、あのベカムと一緒に......はあはあ」
「おお、思い出した、あんたはあの家にいた東方からの旅人だな。」
「は?」
「あの日はベカムだけ連行する手はずだったが、出かける直前に王宮の巫女と言う女性が現れて、」
 聖ことユリアだ。ユリアこと聖というべきか。
「巫女がいうには、ご託宣があったからエスに加えユラという旅人をつれてこい、という話だった。わしは初め訝しく感じたのだが、美しい巫女に見つめられるうち、これは旅芸人が面白いことでもやるのかと、急に楽しくなってしまったのだよ」
「そんな」
「案の定エスという男は『王は迷子の子山羊である』などど、まるで芝居のような物言いだし、あんたもエスの腰にしがみついて、『いっしょに行くわ』とか、まるで親分子分の間柄のようにするし、ああ、こりゃあ、旅芸人が余興でもやってくれるのだろうと、あの巫女も、その一座がお好きなのだろう、こっちにも楽しみをわけてもらえるかも、とまあ、遊び心でここへ連れてきたんだが、そのあとが変だ」
「なにがです」
「ここへもどり、ベカムのことを元の配属場所、あいつはたしか王の墓の建設現場だが、そこへ返す処理をしたとたん、おまえたちのことをぽっかり忘れてしまった」
「あ......」
「同行した兵もすっかり忘れたようで、奥歯にものがはさまったような状態のまま首をかしげながら、そんなこともあるか、と、なんとなく普通の日常に戻った。おれもあんたがここにくるまで、思い出しもしなかったけど、な。おれはな、その時から愉快な気分が続いて、とにかく愉快なのだよ」
 それが聖の特技なのだ。暗示、というらしい、相手の心を意のままに操れる。術がかかった者はなんだか愉快になって、聖のいうとおりにしてしまうのだ。この上官もその技にまんまとひっかかったらしい。
 聖は特殊な能力を持って生まれた。暗示だけでない、時の間のくぐりみちを見つけ過去そして未来へ自由自在に行く事が出来る。あの神秘的な灰色の瞳。あの華奢なからだに漲る、多彩で柔軟で底しれない能力はすばらしかった。
 それはさておき
「それで、ぼくらがつれてこられた、そこの建物は何です?」
 ぼくは館を指差す。経緯のだいたいはわかってきたものの、核心の質問を切り出す。
「ここは出張所だよ。ヤダヤ国には十三の出張所がある、ここは王宮からの命令を執行したり、兵が待機したりしている」
「ここは王宮でないのですか」
「おまえ莫迦か、王宮はエロサルというところにある。もっと大きな都だ。そして、......いや、しかし、おまえどうして、いつ、ここから出ていったのだ? たしかに連行したときまでは覚えているけれども、そのあとは、まるで酒を飲んだ後のような、楽しいのだけれども、うつろというか、あいまいというか」
「うーん不思議ですね、ぼくもよく憶えていないです。まあ、過去のことなど、わすれましょうじゃありませんか」
「そうだな、まあ、いいか」
 どうやら暗示の酩酊状態からまだぬけきっていないらしい上官は、急に真顔になり左右を見てから、声を潜めて言った。
「ここから去れ。王はこういう無秩序な状態を非常に嫌う。あの方は冗談も大嫌いだ。笑った事なんて皆無だ。わしにまでお咎めがある。あの王はすべてが自分で、自分が総べてであると思っている。だから、裏切り者のユラよ、おまえはここにいないほうがいい」
「あの、ひとつだけ、教えてください、王は誰かに、ほかの誰かにですね、たとえば、ぼくの親分のエスみたいな人に、王座をゆずるつもりはありませんよね」
「王座をゆずるだと? 天地がひっくりかえってもないだろう。自分の息子にさえ隙をみせない王だ」
「わかりました。いろいろありがとうございます」
 ぼくはその出張所からかけ出した。エスが王になるというのは......やっぱり、櫻王と聖のでっち上げだった。
 聖はお得意の催眠術であの出張所の面々を惑わし、あの一室を借り、櫻王を王に仕立て上げ、エスをはめて、王にすると嘘とでまかせで、エスはそれを信じて、暴挙にでている。
 自分が王になると、公言している、
 それにエスはもう鬼に羽化してしまった。愛は捨てさり、野望をかかえて、もはやだれにも、とめることなどできない。
 本当の王がこの策略を知れば、エスは討たれるだろう。
 ぼくはどうしたらいい? エスを救う方法はあるのか?
 ぼくは走って、川の側のユリアの家まできていた。訪ねてみようか? ユリアだったらなにか知恵を授けてくれるかもしれない、家は覚えている。一瞬そう思ったのに、ぼくの足は踵を反すともと来た道へ戻り出した。
 ぼくはあの星印の上官に再び会いに行くことにした。
 ぼくはまた裏切るのだ。

 エスのための祝賀会は山の手にある、東洋風の窓のある家でとり行なわれた。そこは華僑のチャン大人という人の館で、ヤダヤでは貿易の仕事で来ている、とパトロが教えてくれた。パトロの金づるを見つける手腕は、感心させられることしきりだ。  
 館主はエスのことは以前から知っていて、今回の慶事を大変喜ばれ、自分の館で祝賀会をしてくれ、と、エスを引きずり込むように家に招き入れたのだ。
 祝賀会は庭に卓を出して行われた。卓の上にはエスの好きな葡萄酒のほか、いろいろなパン、そしてエスが食べたいといったらしいガラガラ湖の奇形魚がのっていた。それから野菜もあった。あの臨界事故をおこして溶けて消えた発電所のそばの土地でとれた野菜だ。カブとじゃがいもは汚染された土の中で育まれたものらしい。弟子たちは奇妙な晩餐に泣き笑いした。それでも葡萄酒さえ飲めればいい面々なのだ。
 まず乾杯の音頭は幹事のパトロがとった。
「エス様が王になることを祝して乾杯!」
 七人の弟子と華僑のチャン大人が杯を上げる。マダイはびんからラッパのみだ。
「ここで、主賓からお祝いのことばを頂戴したいと思います」
 チャン大人は立ち上がり
「エス様おめでとうございます」と言った。エスは頷いた。今日はあの版画と同じ亜麻色の服を着ていたが、背中の翼は見えなかった。そうして館主の言葉に満足気な様子で耳を傾ける。
「わたしは年老いているので、王の前に座ることを失礼させてください。聖なるヤダヤの国に王がお産まれになったときのことはわたしの生まれ故郷でも大きな話題になりました。
 その名はナダレのエス。母ユリアが受胎告知を受け、ヨハネスが父になることを歓喜して、十二月二十五日に馬小屋で産まれる。その時、東方の三博士は彼が王になること、そして救世主となることを予言した、と。この三博士については、じつはわたしの国の民っていう噂がありまして。う、おほん。失礼。のちに大天使によって洗礼を受ける。その時から、エス様は愛の教えを広めるために国中をその尊い足でまわりました。ところがどの村でもエス様のことを邪険にし、そのお力を信じません、でもエス様は石をマナンに換えて、人々を飢えから救ってくれました。そうしているうちに人々はエス様を信じるようになりました。エス様の愛にすがれば、希望を持てるようになっていきました、やがて国中の誰もがエス様を待つようになりました。そしてついにはあの暴君である国王まで、エスさまを認められ、自分は退位され、エス様を王になさる。本当にめでたい事です。これからのヤダヤはきっと、もとのように豊かにそして、幸福な国になっていくことと思います。エス様の輝かしいお力と、その清らかな思いの賜物です。素晴らしいエスさま。エスさまおめでとうございます」
「ありがとう、チャン大人、ありがとう弟子達よ」
 ぼくたちは再び盃をあわせた。
 エスは盃の酒を飲み干すと、満足そうにぼくたちを見回した。そして、
「きょうの祝いの席に弟子のおまえたちに感謝のことばを伝えたい。いや、その前にまず、これだけは言っておこう。この中に裏切り者がいる」
 その時ぼくは知らなかったがぼく以外の弟子の面々も「自分のことだ」と思ったらしい。
 チャン大人以外は脇に汗を滲ませた。ぼくは赤面した。
「わたしはこれまで、ヤダヤ国をどのようにもとの豊かで美しい国出来るか考えてきた。そうして、先ほどの館主の話のように、たゆまぬ努力をしてきた。その結果、明日わたしは王になる。が、これまでのことは一切忘れようと思う」
 会場が一瞬しんとなった
「これまでは、小規模な変革だった。あえていえばささやかな子ども騙しだった。これからは、わたしは国民すべてが等しく、同じ水準の生活が出来るようにしようと思う。富めるものはいなくなるのだ。国民は国家の為に働き、国家は国民にその最低限度の生活を保障し、わたしは他の国へも侵攻し、わが国の領土を拡大し、ヤダヤ王は近い未来に世界を制覇するであろう。わたしが王になったらすべてが可能になる。世界中の人が幸福になれるだろう」
 ぼくはエスの演説を聞いていてよくわからくなった。ただ、ぼくは昔のエスに戻ってほしい、そう思った。今のエスは鬼の翼をかくしている。本性を隠している。
 あの金色の目を輝かし、
「ユラ、愛だよ」って言った時にエスだ。地上は美しいよ、あらゆるものを愛すれば、どんどん良くなる。みんな幸せになれるんだ、ぼくはそう言っていたエスが好きだった。エス、エス様、おねがいだ。もう一度もとに戻ってよ。ぼくが信じていたときのエスに、そうして、もう一度手をとりあって......
「では弟子たちにわたしからひとことずつ感謝のことばを与えよう。まずマダイ、おまえはこれからも書くのだ。わたしの偉業を一言ももらさず書くのだ。おまえが書いた本は世界中で読まれるはずだ。すべての人がわたしの名を唱えるだろう。『エス』と。そしてヒリポよ。おまえの聡明さは長所だ。しかし短所でもある。もっと愚かであれ。わたしの影を見つけてはいけない。パトロ、もっとおおいに騙せ。その能力おまえのずるがしこさは最高の徳である。そして......」
 エスの濁った色の目とぼくの目が合った。
「ユラよ、おまえは裏切るであろう。それは必然で、まさに人間の真骨頂だ。裏切れ、裏切り続けろ、おまえなんか大嫌いだ」
 ぼくの目から涙がどっと溢れた。でもエス、ぼくはずっと好きだ。こんなに好きってわかっているのに......ぼくは、ぼくは
「エス! お願いだ、もとに戻ってよ、でないとこのままじゃ......」
 そこへおおぜいの武装した兵隊が鎧の金属音とものものしい足音でなだれ込んできた。テーブルについていた華僑の館主とぼく達七人の弟子とエスを取り囲み、何重もの輪をつくる。先頭で突入した星印の上官がふところより羊皮紙をとりだした。
「容疑者エスはどこだ」
 あたりはしぃんと静まりかえる。ぼくは喉の奥がぎゅっと締め付けられたような気分になる。
「ではよく聞け」と、星印は老眼がはいっているのか、書面を少し遠ざけたり近づけたり
した後、やっと焦点があったみたいで
「罪人状を読み上げる!」と大きな声で言った
「ヤダヤの国でいかさまの術をつかい、自らが救世主である、と大言を吐き、国民をまどわしただけでなく、みだりに自分を王と名乗り、現、ヘデロ王を侮辱し、さらに身分不相応の饗宴をした罪で逮捕する」
 がたがたっと、みんなが席を立つ。
「ど、どうしてですか、エス様が時期の王になるというのは、いまの王様がお決めになったことなのでは?」マダイが震える声で問う。
「そんなこと王は一言も言っていない」
 エスはどす黒い顔で星印を睨んだ。
「ええ?」
「まさか、じゃあ、この祝宴の意味は」
「支払いはどうなる」などざわざわと弟子たちが騒ぎ出す。
「おお、エス様、エス様、あなたは王のお怒りに触れてしまった」
 華僑のチャン大人は、胸の前で手を合わせ「神よ、エス様をお救いください」と祈る。
「じつは昨日密告者があった」
 ぼくはさあっつと顔が赤くなり、その瞬間、また自分が青ざめたのがわかった。ああ、裏切り者、そして密告者。ぼくにつけられたなんて嫌な言葉。そして。星印はぼくの顔色などおかまいなしに続ける。
「早馬でエロサルの王に、念のため問い合わせたのだ。今日その答えが来た。答えはこうだ」
 上官は咳払いをした。
「そのエスは反逆分子。神のしもべをかたる不埒者。王の心を煩わせた罪も含め、磔にせよ、とのおたっしだ」
「ええっ」マダイは頭をかかえてしまう。「本が、あたしの本が......」
 石盤が庭に落ちて砕け散った。みんなの心の破片もばらばらになった。
 ヒリポはエスに近よりたいものの、膝がすくんでしまうのか棒立ちだ。パトロ、アンドーレ、オスカは後ずさりしながら逃げようとしている。
 ぼくはエスに飛びついた。
「エス、エス、愛している。エスお願いだ。もとにもどってよ」
 ぼくはエスの左頬に唇をあてた。エスはぼくを見ない。ちらりとも見ない。うつろに前をむいている。ぼくはエスの腕をとり駄々っ子がねだるように揺さぶる。
「今なら間にあう、だから、ねえ。ここで、この兵の前で、奇跡をおこしてよ」
 エスならできるはずだった。ここから、一足飛びに逃げればいいのだ。宙を駆ける足で。
「エスはあいつだ、つかまえろ」
 星印が叫んだ。
「ユラ、おまえが密告したのか」マダイが叫ぶ。
 ぼくの回りを兵隊たちがおしよせ、ぼくをつきとばし、エスに縄をかけ、こんどは胴のまわりに何十にも、まるで螺旋のように、それに手首にもその耀く手が使えないように。エスはそれでも黒い翼をひろげ、そうぼくにはそう見えた。飛び上がろうとしたけど、でもすぐにその翼は石炭の粉のようにさらさらと消えていってしまった。
 ぼくはエスの力や能力があればこの瀬戸際でこそどうにかなると考えたのに、エスは自分のためにあの力は使わなかった。たくさんの兵隊の足が後から後から、座り込み、立てないぼくの回りを何度も行ったり来たり乱れてまるで、魔物を退治する踊りみたいに、息をあわせてそろえて、そのあとエスは今度こそ、本当に連れていかれてしまった。エスは全く抵抗しなかった。
 エスはゴルゴの丘に磔にされるのだ。