第四章 再会
 
 あんな光を前に見たことがあるな、とぼくはまた、記憶の端切れを見つける。ぼくの生まれ故郷ではあれは狐火というのだ。
 そんなことを考えていたのはどれくらいの間だったか。ぼくは、時間がかかるな、奇跡をおこすとは大変なことだ、と密かにエスのことを案じていた。
 その時、ひゃえい、とも、でちゅんと、とも聞えるエスの掛け声があったか思うと、垂れ幕が気球のように大きくふくらみ、そして除々にしぼんでいった。
 みんなの視線の集まる中、エスがそこから現れた。憔悴している顔色だった。
「ベカムよ」と言った。
「はい、わたしの名を知っているのですか」
「おまえの母親が教えてくれた。息子の名はベカムと」
「お、おふくろ、まさかものを話せないほど弱っていたおふくろが?」
 ベカムは垂れ幕を勢い良くあけた。そこには木の寝台に腰掛けた女性が微笑んでいて、
「ベカム、エス様に感謝しなさい。このかたは真の救世主です」
 と、しっかりした声でいったのだ
「お、おふくろ、よかった......本当によかった」
 ベッカムは母親の膝にしがみついて、顔を伏せて泣いている。
 しかし、ぼくはエスのほうに心を奪われた。背中が年よりのように丸まっている。たいそう重いものでも背負っている感じで、猫背になっているのだ。
 骨をいためたのか? それとも......いや、あれは姿勢ではない。背中にこぶがあるのだ。ガラガラ湖でも見かけた肩甲骨のあたりのでっぱりだ。右と左に両方あった。それが、明らかにいっきに大きく隆起していた。
 それに木の下で瞑想していた時よりも、顔色がどす黒くなっていた。眉も上がり、目も充血して、これまでの穏やかな印象が、ぴりぴりしたものに変わっている。エスはそうとう無理をしたのだろうか。この奇跡はエスの体に害をあたえるものだったのだろうか。
「エス様、大丈夫ですか」
 ぼくは思わず、エスに近寄った。足もとに座り込んでしまう。
「ユラ、愛だよ」
「え?」
「愛すれば、その人のことがわかるのだ」
 エスの目、いたずらっ子のような金色の目が細められる。ああ、エスはこんなにも人のことを......自らの体のことは省みず他者のために尽くす、これが真の救世主なのか。ぼくの目に涙が浮かんだ。
「エス様」
「ユラ、わが弟子よ」エスとぼくの目が絡み合った。感極まって、ぼくは腰を浮かす。
 しかしその時、ガチャガチャ言う物々しい金属音と、乱れた足音が窓の外で聞えた。槍と槍のぶつかる音、そして石畳を踏み鳴らす音だ。どんどん、と入り口の柱をたたく音が響く。扉がない安直なつくりの家全体が脅かされ、揺れ動くような衝撃だ。その衝撃で、壁の一部が粉になって崩れる。
 はじかれたようにベカムが立ち上がった。顔が引きつっている。
「兵隊だ! おれを捕まえに来た」
 とその言葉が終るより早く、戸口から鎧兜で完全武装した男たちが、わらわらと入って来た。
「ベカム! 脱走罪で逮捕する」
「神妙にしろ!」
 七、八人の兵は一匹の蟻も逃がさない構えで、ぼくらを包囲した。
「ああ。神様! わたしの息子をお助け下さい」
 お母さんは両手を組んで天に祈った。
「おふくろ!」ふたりは抱き合った。そうしている間に、兵隊は次々と音をたてて奥まで侵入してきた。手にはさす股や槍をもち、有無を言わさずベカムを連れて行こうとしている。
「エス様! 助けてあげてください!」 
 ぼくは耐えきれられないで叫んだ。ぼくはエスがこの奇跡で無理をしていると知っていたのに、なぜかまた、彼にこの事態の打開を頼んでしまったのだ。
 エスだったらなんとかしてくれるに違いないという、浅はかな考えだった。本当は知っていたのに。自分でなんとかしなくてはいけなかったのに。いつもそうだった。
 弱虫なぼくは人に頼って......大切なひとに頼りすぎて、そして、失ってしまう。この時もぼくはエスに、頼ってしまったのだ。
 エスはうなずいた。   
 ところがエスの行動より早く、先頭で入ってきた体格の良い、兜に星印がついているのを見ると上官なのだろうか、その軍人が
「おまえがエスか、お前もつれてこい、という王のご命令だ」と言った。
 エスも? なぜ? エスはなぜ連行されるのか?
「そんな、どうして? エス様は救世主です!」 
 ぼくは叫びながら、がっくり膝をついてしまう。
「ユラ、なんでこんなことに」
 ヒリポはぼくの隣で、がくがく震え始めた。
「あぁぁぁ息子よ」
「おふくろ! 行きたくない」
「なんでエス様を!」
「エス様はなにも悪いことはしていません。ぼくらは、この人たちとは今日はじめて会ったのです。どうしてエス様を」
 ベカムの家の中は騒然とする。息子を奪わせまいとする、母の泣き声と、母とは別れがたいが、どうすることもできないベカムの号泣と、ぼくの抗議の声と、ヒリポが釈明を要求する泣き声と、するとその時エスが落ち着いて
「迷える子山羊には、愛をあたえよう。王こそ迷える子山羊である。王がわたしを求めているのなら、行くのが救世主としての務めである」
 と、凛とした声で言ったのだ。家のなかは水を打ったように静まりかえった。
 エスの頭の後光はさん然と耀き、彼の唇は愛を語った後の充足感で潤っていた。しかし兵達にはそのありがたい姿が全く目に入らないらしく、無表情で武器を誇示しながら、ぼくらを威嚇していた。
 ぼくはエスの腰にしがみついた。
「ぼくも行きます、エス様」
「ユラよ。そう言ってくれると思っていた。ありがとう」
「おまえはだれだ」胡散臭そうにぼくを見た星印の上役が言った。
「ユラです。エス様の一番弟子です」
 その時ヒリポは「ちょっ」と舌打ちした。自分が一番のつもりだったのだろうか。
「そうか。おまえがユラか。ユラも連れてこいというのが王の命令である。『裏切り者のユラ』、ユラがエスの脇にしたがっていたら、エスともどもつれてこい、との仰せである」
 兵が一斉に駆け寄ってきて、ぼく達の腰に縄が結ばれた。

 信じているものはだれだっただろう
 もう信じることさえ忘れてしまった。
 愛していたのに
 それとも愛していると思ったのは錯覚だったのだろうか
 
 エスとぼくは石の建物の一室に通された。ここで、取り調べられるのか。
 ベカムは、脱走した罪で足かせをはめられ、また墓を作る仕事に戻らなくてはいけないのだ。でも彼はぼくらと別れる時、
「おふくろの元気な姿を見たから、この先もなんとか耐えられるさ。ありがとう、エス様。ユラ、あんたには世話になった」
 と言って、引き連れられていった。何度か振り返り頭を下げている。
 だからぼくは、少し気持ちが軽くなっていた。といっても、ほんの米粒くらいだったけど。不安のほうがずっと大きかったからだ。
 ぼくはずっと考えていた。なぜ王は、ぼくも連れてこいと、いったのだろう? 
 いやエスの弟子なのだから、認められたという面ではそれはそれで嬉しくもあるのだけれども、ぼくの名の上についた裏切り者、ということばに、ぼくはなんだか暗澹たる気持ちになる。王は何を知っているのだろうか。ぼくの過去か?
 ぼくは王に会った事があるのか? ぼくはひょっとすると、ベカムのように以前脱走した罪人なのだろうか。どんな裏切りをしたのだろう。
 そんなうろたえるぼくとは対照的に、エスは極めて落ち着いていた。大嵐にも揺るがない、しっかりと根を下ろし、枝を広げた木のようだ。
 背中のこぶは先程より目立たなくなっていたけれども、兵に引っ張られ広がった襟からのぞくと、赤黒く腫れた出来物のようにも見えた。そして顔色は悪かったが、目を瞑り、この部屋でも蓮華座を組み、自分の姿を自分で統制しているようにも見えた。
 王がエスに何か理不尽な言いがかりをつけ、エスの力のことを問いただすのかもしれないが、エスには愛という信念があるので、ぼくはエスについては全く心配していなかった。むしろ自分の過去が暴かれるような不安から、顔はこわばっていた。
 ぼくとエスが案内された部屋は、装飾品や家具などの調度品がほとんどなく、唯一窓に面している部屋の壁に、こちらをむいた木の椅子が一脚あるだけだった。
 取調べをする部屋なのだろうか?
 その椅子はとくに立派な飾りや、彫刻が施されているわけではなかったが、実用的で座りやすそうな感じだった。肘掛もついていていたし、身分のあるものが腰掛けるのだろう、そんなことを漠然と考える。  
 瞑想にふけるエスの横で、ぼくはする事もなくなんとなく椅子を見て、時間を過ごした。外は夕刻が近いのか、薄暗くなりつつあった。そのとき廊下から人の声が近づいてきた。
 王だろうか。きっと王だ。
 ぼくは椅子に向きあうと片膝をついて、頭を垂れた。臣下の礼だ。
 なぜだか、そんな動作をいとも自然にした自分にうろたえていると、床を草履で歩く音、布が擦れる音がして、下をむいていても誰かが椅子に座ったのがわかった。その人物から声が発せられる。
「由羅、ひさしぶりだな」
「あ」
 ああ、櫻王だ。声でわかった。顔をあげると、彼の黒い目と視線がぶつかる。長い漆黒の髪を紐で束ね、意志の強い唇があり、見覚えのある顔だった。
 肩に真鍮の飾りで留めた布を足首まで垂らし、胸には紋章が刺繍してある服をきていた。その紋は、体が一つで二つの首をもつ竜が片方は太陽、片方は月をくわえようとしているものだ。衣は腰のあたりを帯で締め丈は膝まで、服の下は編み上げの草履だった。
 ぼくは何度も見ているかれの足の指を確かめる。ああ、やっぱり櫻王だ。これは見間違える事はないもの。はじめは似ている人かな、と思ったけど。
 この特徴ある足指は、櫻王だ。
 でも、なんで櫻王がここに?
「櫻王......あいたかった」
 なぜか、ぼくの口から出るのはいつもこの言葉だ。
「......」
 でも、かれはその声に答えるそぶりもせず、ぼくからさっと目をそらすと、隣で瞑想しているエスを見た。
「ナダレのエス、あんたは嘘つきだな」
「王よ、わたしのどこが嘘つきか」
 エスは目をかっと開けて、毅然と王を見る。そして次にぼくをゆっくり一瞥した。
 軽蔑されたのかもしれない。
 ぼくは何を言っているんだろう。 王に『あいたかった』なんて。ぼく達二人を、連行するように命令を出した王に、媚びているみたいじゃないか。ぼくはこのエスの一番弟子なのに......エスはぼくを呆れているに違いない。
 王はぼくの思惑などおかまいないしに、エスだけに話しかけた。
「あんたは信じるものを救うと公言しているようだが、誰ひとりも救っていないではないか」
 と、語気強く言う。
「わたしはたくさんの人を救ってきた」
 エスの声には曇りひとつない。自信に満ち溢れている。
「ほう、たとえば? どのように?」
「たくさんの村をまわり、マナンを恵んできた」
 ぼくの中で、何か空気の抜けるようなしゅうう......という音がした。櫻王に会ってから、なぜか、ぼくはやたら落ち着かない気分になった。マナン、あの美味しい食べ物のことも、幻のように思えてしまう。
「マナン、それはなんだ?」
「食べ物だ。与えたものが望む味になる、滋味に溢れる、わたしからの愛の証だ」
「だれも、そんなものはしらないといっている」
「まさか」
「ここで出して見せろ」
「ユラ、おまえのマナンを出してみなさい」エスがぼくを優しく促す。
 ぼくは、はっとして着たきりの服のふところを探った。
 そこにあるはずだ。昼頃も、ちょっとかじったのだから。しかし懐にいれた手がふれたのはざらついた石の感触で、ぼくは
「え、どうして?」と、震える手でそいつを出してみる。
 土くれがへばりついた汚い石を取り出すと、王は勝ち誇ったように
「マナンなどは、この国のどこにも存在しない。だれも食べたことがないだろう」
 そうしてとどめを刺すように付け加えた。
「おまえは、救世主とかたり、人々を惑わす嘘つきだ。だから牢に入れる」
「王よ、わたしはガラガラ湖で、舟に積みきれないほどの魚を捕ったこともある。網を投げると魚たちはわれ先にと飛び込んできた」
「ほほう。して、その魚はどこにある」
 エスは絶句した。塩漬けにして樽に詰めた魚はパトロたちがすでに売ってしまったし、もちろん、ぼくがそこで、ぼくも一緒に網をたぐった、と言ったところで、信じてもらえるだろうか。
 ぼくはわかった。この王はエスを嘘つきと断定し、民を惑わすものとして罪人と決め付け、牢屋に入れようとしている。
 でも櫻王が、どうしてエスを。
 それともぼくが見てきたことは櫻王が言うように幻だったのか? だって、そんな、石をマナンに変えたり、あの油が浮いた、ねばっこい湖で魚を捕るなんて、ありえない話で、実はエスの手妻なのか、と、あの時も、内心はそうは考えていたが、
 ちがう!
 いやぼくは憶えている、あのマナンの味を。そしてあの湖での大漁の重い喜びを。ぼくはエスを信じている。
 でも、今の今まで信じていたのに、どうしてこんなふうに手の平をかえしたように、こうなるのだろう?
 もたげてくるこの疑う気持ちはどこから来るのか。黒く、吐き気がして悪寒と吐き気と、苦痛の混ざり合った、あの最悪の紛末、むせて咳き込んで胞子が運ぶ粉末。あれを吸ったのか?
 時間旅行だった、あれの途中で、もうひとりのぼくが呟いた。
 苦しいのに、もっと吸いたい、
 もっと飲めば、得られる多幸感!?
 ぼくはいつだってそうだ。何も信じていなかったのだ。
 櫻王のことも、聖のことも、エスのことも。
 ぼくは疑っているのか。あんなに信じていたエスを、疑っているのだろうか。
 見よ、たった今までエスの頭をふち取るように、耀いていた後光が、いまは洗髪していない脂ぎった髪のてらてらした色にしか見えなくなってしまっている。そんなわけない、そんなわけは......
 エス!
「エス様、でもベカムのお母さんの病気を治してあげましたよね。ぼくは見ていなかったけれど、垂れ幕の後ろで、エス様の耀く手が......光がいっぱい集まって」
 ぼくはそれでも、最後の切り札のようにこの事実を話した。自分にも言い聞かせるために。納得させるために。
「おお、たしかに、そうだった、ユラ。それはベカムもおふくろさんも証明してくれるだろう」
「エス様! よかった」
 ぼくらは手をとりあって、踊らんばかりになる。
 すると王はすっくとたちあがると、まっすぐにぼくのほうに近づいてきた。
「やはり裏切り者か」
「櫻王...」
 長身の櫻王を、ぼくは見上げた。
「由羅、おまえはどっちを取るのか。おれか? それともエスか?」
 櫻王はぼくをじっと見たまま、まず自分を指差し、そして次にその手でエスを指差した。
 櫻王はいつも容赦なく相手を責める。
 それはお父さんの血の影響だと、いつか聖が言っていた。執拗に情けもかけずに、攻める。
 だからぼくはそんな櫻王の本性に、時々不安になって。いつか信じられなくなるかと、そういうことばかり考えていた。でも違う。ほんとうはそんなんじゃない。実はぼくは、ぼくが求めていたのはもっと自分勝手な事だった。
「どちらを、って。櫻王。酷い言い方だね。ぼくがこんなにあんたの言葉に一喜一憂しているってわかないの? どっちをとるか、だなんて」
「......」
「でも、どうして? あ、あの時いってくれたのはあんたでしょう。由羅、一緒に行こうって」
 一緒に行こう、なんて甘美な言葉だろう。あの日からぼく達はいっしょで......
 ついてきなさい、そう、エスはぼくにこう言った。
 孤独の沼の淵から、耀く手で救い出してくれたエス、も。
 ぼくはエスを信じていたはずだ。
 ぼくはもう迷わない。自分のことは自分で決める。
 いくら櫻王を好きでも、かれはぼくのことをなんとも思っていない......だってかれは聖しか眼中にないんだ。ああ、妙だな。ここにきて、ぼくは記憶がいっきに戻ってしまった。
 失われてしまった、滅茶苦茶楽しくて、そのくせ体が凍るくらい冷たく暗い記憶。でも忘れていたほうがよかったのかもしれない。
 だって、ぼくは櫻王に見捨てられたのだ。
 だから、きつくて、もう気が変になりそうなくらい辛くて、
 思い出そうとすると腹がえぐられるような記憶。
 ヒリポはちょっとあの叔父上に似ていた。年は全く離れているけど。そう知識の豊富な所、機知に富み、そして冷静で、人当たりが良く、だからぼくはヒリポに......声をかけてもらったときは、嬉しくって、あの砂漠にたったひとり取り残された、絶望の孤独の地獄のあとだった......
 ヒリポの思いは無碍にできなない。ヒリポと誓ったんだ。エスについて行こう、と。ぼくはエスを信じている。エスの耀く手、エスの愛。エスの言葉。エスの思い。
「ぼくは、エス様を信じる」
 櫻王とは、もう駄目になったのだ。
 突然音をたててがらがらと崩れていく、自分の心の支え棒の喪失を感じた。それでもしっかり立っていなくては。エスを出来る限りささえなくては。弱虫で普通の人間の由羅、そんなぼくでもできることはエスを信じる事だ。
 櫻王はぼくを見るとにやりと笑った。
「由羅、そうこなくちゃあ。話は進まないからな。成長したな由羅」
「ま、またひとのこと、莫迦にして!」
「そうか? だれも裏切り者を相手に莫迦にしないさ」
 ぼくはかあっと顔が赤くなった。
 裏切り者。そのことばはなんて的確にぼくを象徴しているのだろう。
「ユラ、ありがとう、信じてくれてありがとう」
 エスがぼくの傍らに寄り添った。エスからはいつものような威厳が失われていた。それは気のせいかもしれないと半分は思った。背中のこぶはやっぱり腫れているようだったし、身体のほうでなにか不調があるのではないだろうか。ここにきていっきに年をとったように思える。これまでエスは食べ物をほとんど摂っていない。いつもそうなのだ、あの魚の汁も口にしなかったし。
「人はマナンと水のみで生きられる」
 なんて見栄張っていっているし、極限まで節制することが、救世主に到達できることになると思っているような節があった。
 それにしても先ほどの櫻王とぼくの会話を、エスはどう思ったのだろう?
 いいかげんな弟子と思ったのか、それでも、最後には自分についてくれたことに安堵しているのか......裏では信用していないのか。
「エス様、大丈夫です。ぼくは死ぬまであなたの弟子です」
 そう、その時はそう思ったのだ。そうしたいと思ったのだ。エスの目が光った。
「ユラ、ではおまえからも王に提案してくれ。それではわたしがどうすれば、わたしが嘘つきでないこと、救世主ということをわかってくれるのか」
 エスは救世主として認められたいことを切望していたのだろう。
 その気持ちはよくわかった。
「どうすれば......それは奇跡を見ればわかることで......」
 そうか、王を、王の見ている前で奇跡を行えばいいのだ。そうすれば王も納得するに違いない。エスの耀く手と、エスのあの雷に触れたような波動を。王とて実際に目の当たりに見れば、エスの素晴しさ、エスの慈愛が身をもってわかるだろう。
「その証をたてればいいのですよね。わかりました。ぼくから王に提案しましょう」
 エスが直接話してもいいのであろうが、こういう回りくどい事をしたほうが、おごそかで、偉そうに思えるのだから不思議なところだ。
「王よ、エス様のご提案です。エス様は救世主であることを証明するために、王の御前で、奇跡をおこすそうでございます」
 ぼくは王に向き合うとこう切り出した。
 椅子に座っていた櫻王は、興味深く身をのりだすと
「そうか。それは面白い茶番だ」
 いや、茶番ではないのだ、とぼくは思ったけど、訂正しなかった。少し考えていた王は
「では、こうしよう。目の不自由な婦人がひとりいる。その人の目を治してくれたら、エスを信じよう」
「ほんとうですか。」
 ベカムのお母さんの病を治したんだもの。目だって治せる、とぼくは考えた。
「もちろんだ。さらに、嘘つき大衆扇動罪の罪は取り消そう。ああそうだ、もし彼女の目が治ったら、王になればよい」
「王に?」
 エスが高い声でたずねる。
「そう、聞くところによると、エスとやらは、かつて東方から来た三博士にヤダヤの王になると、予言を受けたそうではないか! そうしよう。エスの力は国中に幸せをもたらすのであろう。それは王になることこそ相応しいということだ」
「王......」
 エスはうっとりと媚薬をもられたようにその言葉のとりこになった様子だ。そこのところは母親であるユリアの血をひいているのかもしれない。
 ぼくはそれなのに
「でもどうするの? 櫻王はどうするの? エスが王になったらどうするの?」
 そう聞いてしまった。
 櫻王は初めて少し笑って
「あいかわらず莫迦だな、由羅」
 と言った。ぼくはかれがぼくのことを莫迦とか阿呆というのが嬉しくて、いつもくだらないことで、笑っていた。そしてそのくせ、本当の気持ちには蓋をして......櫻王と過ごした時間ははるか遠くで、もうこんなに二人の間には溝があるのに、どうしてまだ、懐かしく思うのだろう。
 エスはぼくの回想を吹き飛ばすように、言った。
「では、王よ、そのご婦人はどこにいるのです」
 エスはとても自信ありげだ。
 とにかくぼくはこの櫻王との再会や、エスとのやりとり、自分の失われていた記憶のことなど、頭のなかが混沌とした状態で、その後またなにか、驚愕の事実を芋づる式にすくってしまうのではないかという漠然とした予感で、恐かった。 
 しかしエスを信じていこうと決心したぼくは、もう後もどりはできない道を歩いていたのだし、何が出てきたとしても、エスについていこうと、自分の気持ちを再確認した。
「自信があるのか」
 櫻王が顎をひき、きっとまなざしを鋭くして言った。
「もちろん」
 エスは大きく頷いた。
「そうか、恐るべきものだな。鬼の種子というものは......」
 櫻王はチラッと、ぼくを見た。そのあと手を大きく二つ叩いた。
「ダラダラのユリアよ。出ておいで」
 そこへ静々と一人の女人がはいってきた。
 ユリアというのはエスのお母さんとおなじ名だぞ、ぼくはエスの顔をちらりと見たが、とくに動じた様子もなく、その女性の歩き方を注視している。どのくらい目が悪いのか知りたいのかもしれない。目の悪い人は足を引きずって歩く傾向があるには確かだ。その女性は杖も突いていなかったし、手で壁を確かめながら歩いているのではないし、まるで氷の上を滑るように歩いていた。白い服を着ていたこともあって、その歩き方は白鳥を想像させた。
 ふと、ぼくは気づいたのだが、どうもここは変だ。王の側近や家臣も召使いもいないし、この女人が奥宮に住まう愛妾のひとりか女官なのか、わからないが、こちらも供を連れていない。
 この部屋もなんだか殺風景だし、本当にここは......とそこまで考えた時、くだんの婦人が耳飾りで止めていた半透明のヴェールを外した。顔があらわになった。
 銀色の髪を腰まで下ろしていて、体は首からくるぶしまで白く長い布でおおっていたが、その布が肌をきっちりと隠している。唯一出ている顔を見ればだいたいの年がわかるかもしれない、とぼくはそこまで考えて、ついに大当たりをつり上げてしまった事をさとった。
 ひじり、だ。
 いや、違うのか? それにしても、ぼくのいとこの聖に似ていた。
 ぼくの脳が三倍速で、今までのことをカタカタと復習し始める。
 思えば三十余年前、ぼくらはエスの誕生を祝福に行くふりをして、かれの脳に寝付いた鬼の種子の発芽を、なんとか遅らせることに成功したのだ。それからその種子が芽生えた時期を見計らって、今度は時間を早送りしてやってきたものの、ぼくは落ちこぼれてしまい、ひとりになったのだ。砂漠で気がついたとき、まわりには誰もいなかった。
 とうとう突き放された。とうとう見捨てられた。
 記憶はあいまいだったが
 そんな思いだけは残り、ぼくは慟哭した。
 そのあとヒリポに会い、そしてエスに「ついておいで」と言われ、
 そうしてこの再会だった。まず櫻王と、そして次に聖か。
 やはりこれは罠なのか? 誰をはめる罠? エスか? ぼくか?
 あの時、捨てられて、ぼくは、さっきエスとともに生きていく決心をして......だから、もうどうでもいい。この女人が聖だろうと、ユリアだろうと。
「エス様、はじめてのおめもじ嬉しゅうございます」
 ユリアと名乗る女性は片膝を少し曲げて、エスに挨拶をした。その瞳は灰色だった。
「あなたがユリアか」
「はい」
「いつから目が悪い?」
「さあ、いつ頃でしたか。少し形がぼんやりしていきました。十七歳のときに事件があって、それからはたいそう暗くなりました」
「わたしの顔が見えるか」
「お近くに参ってもよろしいですか」
「許す」
 ユリアはエスに近寄った。まるで磁石が引き合うようにエスの一歩まえのところで止まり、じっとその澄んだ灰色の瞳で見つめた。しばらく見詰め合った後
「お顔はここでも見えません」
 と、はらはら涙をこぼした。
「なぜに泣く、子猫よ」
 子猫? 子山羊ではなかったか......
「救世主のお顔はどんなに尊いのかと、ずっと憧れておりました。ひと目見とうございます」
 エスの目がやにさがり、鼻の下が伸びたような気がした。 
 ダラダラのユリアは美しかった。黄色がかった肌の色は東洋の血筋かもしれないが、三日月の眉とその下の神秘的な灰色の瞳。鼻はさして高くなかったが、唇は牡丹色で、エスでなくても男だったらだれでも惹かれる顔だった。もっとも、奥さんにするには不向きかもしれないけど。そう、神に仕える巫女に通じるような女性。それがユリアだった。
 というか、聖なのか。
「そうか、その願いを叶えてあげよう」
 と、エスは勢いよく櫻王を振り返った。エスの後光はからだ全体まで耀きを拡大させていた。力がよみがえったのだ!
「わたしが今ここで奇跡を呼び起こすだろう。彼女の目を......」
 するとどうしたことだろう。あんなに目の前で奇跡を見なければ信じない、といっていた王は急に消極的になった様子で、エスのことばを遮り
「ああ、いやもういい」と言う。
「は?」
 ぼく達は口をあんぐり空けた。
「あんたはこのユリアの家に今日は泊まってくれ。明日その奇跡とやらの成果を見させてもらえばいい」
 なぜ王がそう言ったのかわからないが、ユリアはもうエスの腕に自分の腕をからみつけ、
「参りましょう。ここからそう遠くありません」
 と言っている。エスは、王の豹変ぶりが気になるようでもあるが、ユリアの妖しい魅力には勝てないらしく、「そうか、それなら」と、嬉々として従っている。エスがこんなに女人に弱いとは......ほんとう人は見かけによらないものだ。先程まで湾曲していた背中まで定規をいれたように伸びている。ユリアが振り返り、
「由羅も来て、こっちよ」
 と言っているところをみると、やはり彼女は聖なのだろう。ぼくは肩を並べ、べったりと歩いている二人の後をとぼとぼとついていった。櫻王は?
 なぜ、急に態度がゆるくなったのか?
 その疑問を解決するために、部屋から出る間際、後悔するのを覚悟で振り返った。
 櫻王は下を向き、必死に笑いを堪えている様子だった。

 第五章へ続く