第三章  東方の三博士

―時は三十余年前にさかのぼる。

「あの馬屋にユリアがいるの?」
 チャドルで頭から顔を覆った聖が言った。体にまとっている物はトーガとよばれるもので、着物のように前であわせ腰の位置で刺繍をした帯をむすんでいた。温暖な地方のベツナヘムではこれ一枚で十分だったので、生地は頑丈な粗い布を使っていた。見栄えはよくなかったが、聖が着ると、何となく品があるように、ぼくは思った。
「そうだ」
 櫻王が応えた。黒く長い髪を紐で束ねていた。やはり青緑色のトーガを着ていたが、丈が短いため脛が見え、またそれも妙にさまになっていて、すりきれた草履を履いていても、どんなぼろ布でもその個性をかき消すものにはならないのだ。いったいどこの生まれなのか、えたいの知れない不気味さ、そのくせ心惹かれる妖しい雰囲気がある。
「今日は、生まれてくる赤子が救世主になるということ、そのことを伝えます。予言ともいえるけど、それをユリアとヨハネスの頭に聞かせればいいの。つまり、鬼という邪悪な力を、愛や恵みへと方向をかえれば、エスは鬼としてではなく、いずれは救世主として育ててもらえるのです」
 聖の言葉はこれからの行動の確認でもあるようだ。
 ぼくはこっくりとうなずく。
「由羅はまだ体がつらいの?」
 聖がぼくを振り返って、つけたすように問いかける。彼女の灰色の瞳は心配なことがあると翳る。今は夜の闇に近い色であった。
「ああ、なんとかね。めまいもだいぶおさまってきたし、体はなんとか、もとに戻ってきたけど、頭の中がぐちゃぐちゃで、とらえどころがなく、記憶ってものがあいまいな感じだ」
「......由羅にとって、この時間を巡る旅は、つらかったわよね」
 聖が心から同情してくれているのがわかった。
 確かに、この世の地獄といわれるくらいの旅だった。急降下したかと思うと、今度は急上昇、そして、体がちぎれるかと思うほど、岩か錘を打ちつけられたような衝撃、その後は、水におちて息ができない感覚、そして、そんな感覚さえまともに思える、ちぎれるくらい引っ張られる四肢の痛み。
 それが何度も何度も同じに、あるいは駄目押しのように、異なった順番で繰り返され、もうだめだ、おしまいだ、いっそ殺してくれと思ったとき、ようやくこのベツナヘムの、この時間に着いた。
 時間をさかのぼったのか、先に進んだのかもわからない、これまでの経験もなにひとつ役立たないほど、不安定な体と心で、このヤダヤといわれる国の、いまに来たのだ。
 ここで、この地で鬼の胞子が、悪影響を与えるのを阻止しなければ、いままで人がやってきたことが、なにもかも崩れるくらい、大変な事になるから、という、聖の号令で、いそいで飛んできて、この状況に至っているわけだ。
 ぼくの少なめの脳みそが理解しているところによると、ぼく達三人は、鬼の種子が誰かの頭のなかで根っこを下ろし、芽をだすのを阻止することを使命としている。
 その種が芽吹いたとたん、苗床となった人は鬼に支配され、残虐な殺りくをしたり、無謀な統治をしたり、たくさんの人を混乱と困窮、戦争に追い込むからだ。
 よくいわれる「鬼そのもの」ということだ。
 鬼はそれを十分に知っているので、より、強い生命体、人の上に立つ人間を標的に、時間を自由に行き来する能力を駆使しては、ほうぼうで種子を植えつけている。
 そして、ぼくたちが、先回りをし、あるいは後を追ってそれをうまく変えていく。
 ぼくたちは時間を股にかけて戦う、鬼退治の業師といってよいだろう。
 もっともそういえばさまになるのだが、どうも約一名、つまりぼくだけが、『技なしの無能者』という感じはぬぐえないのだ。
 それだけは、自覚しているわけであるが。
 さて、すでに事を成し遂げた鬼はユリアというある女性の中に、種子を植えつけられ、それは取り除こうにも、しっかりと胎児に根付いていて、策を変更せざるをえなかったのだ。
 後手にまわったか、という危機感があった。
 うまくいかない。
 それは時間を巡る旅がものすごく大変ということにも、起因するのだけれども......
 聖も櫻王も、この時間旅行については全く平気なようであった。
「時間をかけての旅は、凡人には無理だ」
 櫻王が腕組みをしてそういった。
 聖も続ける。
「私は術を使う本人だから、勝手加減がわかるし、櫻王はもともと、半分は鬼だから......鬼っていえば、神出鬼没なわけだし、それに櫻王は柳島一族の血も引いていることも強みよね、でも、由羅は......」
 ふたりは、ただの人間のぼくを哀れむような目でみる。
 ぼくは肩からずり落ちたトーガの襟をもう一度かき合わせ、身じまいをなおした。自分で言うのもなんだけど、かっこ悪さという点では、自慢できる。
 聖のいう柳島一族とは、一般の人間とは異なる、特殊な能力があった。
 聖はその力、他に類を見ないという特異な能力を持った柳島一族の末裔で、おまけに父親譲りの狐の妖力も持っている。
 自分の容姿を変化させることは、聖狐族の力ではお茶の子さいさいで、もちろん時間旅行のときは舵取りもする。目が悪いが、そんなことは全く問題を感じさせない。
 櫻王もその柳島一族の血筋で、お母さんの美月というひとは、聖と同じ血筋らしい。しかし問題なのが、親父さんが鬼ってことだ。
 このぼくたちの、鬼退治作戦とは、
 もとは櫻王の親父さんが属していた鬼一族が、世界中に悪を広めていて、栄華を誇っていたのだが、勢力がなくなり、起死回生と世界制覇のために、鬼の種子を際限なくばら撒き始めたため、その鬼の悪行を阻止しようとしたのが始まりだ。    
 鬼は最後の手とばかり、時間と空間を自由に行き来し、あらゆるところで、種子を根付かせることで、鬼を増殖しようとしている。
 人と人を争わせ、あとは自分たちが台頭するつもりなのだろう。
 ぼくらはそいつらを追ってきたのだった。
 しかし、どうやら後手にまわっている感は否めない。
 それはぼくが足手まといになっているからとは薄々わかっているのだけれども。なにしろさっきも言ったけど、ぼくには特殊な力は皆無だ。ごく普通の、いやむしろなんのとりえもない、ただの人間だ。だからぼくは必死で、そう、聖や櫻王に迷惑はかけないと、いつも考えてはいるが、このとおり、まったくに不甲斐ない現状だ。
 とにもかくにも、これは自分で選んだ道なのだ。
 あの時、聖が言った。
 これはとても危険なことだ、うまくいくかはわからない。もしかすると、由羅は時間の流れのなかで、永遠に戻れない放浪者になってしまうかもしれない、と。
 だから、ぼくに何度も注言したのだ。本当に行くのか? 後悔しないのか? 離れ離れになってしまうかもしれない、と
 ぼくだけ残れば、なんとか生きてはいけるだろう。唐国で待っていたらどうか。
 ひとりで......?
 それとも、叔父の孝義公のもとへ?
 孝義公なら、ぼくを庇護してくれるだろう。
 でも、ぼくはもどりたくなかった。
 離れるのは嫌だ。ずっと一緒にいたかった。だからぼくは迷わず言ったのだ。どんな苦痛にも耐える、と。
 その結果がこれだ。この苦痛は耐えるとか耐えないとか云々言うしろものではない。ただもう死んだほうがましとも思えるたぐいのものだった。
 それほどの苦しみだった。
 ようするに、耐えられなかった。
 叫んだ。汚物をまきちらし、ほえた。
 情けないがしかたない。とりあえず、この悪寒と嘔吐の不快感をなんとか我慢して、東方の三博士の役をしなくてはいけない。
 これは非常に重要な場面なのだそうだ。歴史の本にも出るであろう、とても神秘的で、美しく、情感あふれ、かつ荘厳な場面なのだそうだ。後の絵画にはぼく達の事が絵に描かれるのか。せめて、まっすぐに背筋をのばしたところを描いてほしい、そんなぼくの耳に
 ぶひひいいい、と声が聞こえた。
 ぼくらは、いまロバに乗っていた。
 馬を調達できなかったのだ。頑固でうすのろのロバがやっとだった。聖はとても憤慨した。彼女は馬がとにかく好きなのだ。
「馬に乗ってない三博士なんて、聞いたことない!」
 と、いうのが彼女の主張だったが、とにかく、代替品のロバで我慢するしかなく、ユリアが出産したと考えられる馬小屋に、ぐずぐずと向っているのである。
 櫻王はロバとぼくを見比べて笑っていた。
 類は友を呼ぶ、ということか?
 ぼくは、この時点でも、あまり台本を知らされていない。何をどうしていいのかわからない。
 いつもそうだ。聖と櫻王は二、三言打ち合わせしただけで、暗黙の了解でわかってしまうらしい。ぼくは飲み込みが悪いそうだ。だから、あまり教えてもらえない。ぼくが情けない顔をしていると
「由羅はありのままでいいのよ」と、聖が言う。
 ありのまま ありのまま? 本当に?
 だけど、ぼくは不安になる。二人についてきたことはやはり分不相応な行動だったのだろうか? あのまま市井で埋もれる平凡な人間でよかったのでは、と。もしついて来なかったとしてもふたりにとってはどうという事でもないだろうし......ぼくがそう言ったら二人はどんな顔をするだろう? 
 きっと、ふふん、と笑うだろう。
 だから何? と言うだろう
 どうしたら信じてもらえるのだろうか?
 どうしたら愛してもらえるのだろうか
 しかし、ぼくは一緒にいたかった。他にぼくは行く所もないのだ。
 ―叔父上、ぼくは相変わらずです。
 叔父上というのは聖のお父さんの孝義公のことだ。ぼくは父親がわりで人生の師でもあった彼に時々呼びかける。
 ―ぼくはここでこうして悩んでいます。叔父上だったら、どうですか? ぼくは勇気がでない。それは......いつか見捨てられるという不安で......
 不安はいつも蛇のようにぼくを締めつける。そうすると、一つの言葉が頭にあぶくのように浮かぶのだ。
 ―だったら、いっそ見放された方が楽だよ。いつ見放されるかという不安に絶えず脅えるより、実際にひとりになった方が、ずっと心が穏やかになる。なにも失うものがなくなるっていうのはいいものだよ。そう、思い切ってやつらから離れたっていい。
 これは鬼のささやきだった。
 鬼はだれの心の隅にいて、飛び出す機会をうかがっている。
 種子を植えつけられるのを待っているのだ。
 ぼくの心の鬼は、体が弱ったためか、よく出てくる。
 それにぼくが答える。
 別れることか、それもひとつの手だ。
 そうかもしれない。でも愛している人から離れること、そんなことが出来るのだろうか?
「由羅、そろそろ行くわよ」聖がロバにムチをくれた。
 聖のロバは足を速める。砂が舞い上がった。
 ぼんやりとしているぼくにつきあっていては、夜があけてしまうのだろう。
「わかった」ぼくも一筋縄ではいう事をきかない、相棒の腹を思い切り蹴った。
 櫻王のロバは従順にいう事を聞く。彼はどんな獣も手なずけられるのだ。馬系の動物に強い聖もなんなく乗りこなす。
 しかしぼくはここでも惨めになる。ぼくのロバはまったくいうことを聞いてくれなかった。
「ふんぬー」
 どすどす。
 再度腹を蹴るがむなしい努力に終る。こちらの踵が痛いくらいだ。櫻王が無言でぼくのロバの口に結んである縄をひくと、縄がぴんと張る前にロバは歩きだした。

 馬屋の窓からそっとのぞくと、わらでできた即席の寝台にはお産が無事におわったユリアが満足そうに微笑んでいた。
 勝気なユリアだが、なんといっても出産した後の、おだやかでかつ喜びにあふれた時間は、彼女にも例外なく訪れたらしい。しあわせな顔をしていた。
 ユリアの背中にあてがったまぐさは、馬小屋の主のものだったので、かれはおおいに憤慨していたようにみえた。珍入者たちの事で、まるっきりいつもの生活を取り戻せないのだろう。
 前足でしきりに地面を掻いていた。
 十二月二十五日、空には星が耀いていた。
 ぼくらはロバから降りて、手近な木につなぎ、馬小屋をうかがっていた。
 聖と櫻王は頷きあうと、入り口に向う。とびらはなく、布が垂れているだけだった。
 櫻王はずい、と中に足を踏み入れた。
「今夜産まれた赤子はそいつか」
「な、なんだ、あんたたちは?」
 ヨハネスは、男親として妻と子を守ろうと両手を広げ守ろうとする。
「心配ありません。わたしたちは東京から来た三博士です。祝福にきました」
「聖、東方だよ」
 ぼくが脇をこづく。聖は大雑把なところがある。
「あ、そうでした東方です、その子に祝福をあたえにきました」
「え、」
 ヨハネスの口があんぐりと開いた。聖がゆったりとした口調で、諭すように話すと、ヨハネスは目を丸くしてぼくらをじっと見た。ユリアはまだ産褥の、決まらない体だったが、目を輝かして言った。
「やっぱり、この赤子は特別なのね」
「そうです。櫻王、例のものは......どう?」
 櫻王は頷くと、一跨ぎで飼い葉おけに近寄り、赤子をくるんでいる布を捲った。裸でうつ伏せにねむっている、黄褐色のからだの肩甲骨の辺りにこぶがあった。
「まちがいない、種子の胞だ」
「?」
 不審に思ったユリアがその意味を問いただそうとした、
 そのとき、
「この子は、いつかヤダヤの王になるでしょう」
 聖が耀く笑みで言った。彼女がいうと、ますます厳かに聞えるから不思議だ。
「王、おう、おうとは」ヨハネスはピンとこない顔だった。
「王様! わたしは王様を生んだのね!」
 反対にユリアは顔を歓喜の色で一杯にした。とうとうユリアの大望が叶うのだ、王の母! すばらしい身分! 最高の身分! 自分は最高の地位を手にいれられる! そんな思いが溢れ出ていた。
「ユリアよ、ヨハネスよ。のちに彼は救世主になるのです」
「はあ?」
 ユリアは口をとんがらせた。
「王のほうがいいわ。救世主ってなによ」
「莫迦、おまえ、きゅうせうしゅっていうのはな、人々をお救いになる方だぞ」
 ヨハネスが必死で説明するがユリアは理解できない様子であった。
「ぼ、ぼくは...」
 今まで黙っていたぼくが急に口を開いたので、皆の注目が集まった。
「ぼくはエスが、いい人になれるように頑張ります!」
 全く意味不明の言葉で、恥かしかったけど、なぜかそんな言葉が口から出たのだ。櫻王はぼくの襟首をつかんで、戸口まで引きずっていき、聖もとってつけたような笑いを浮かべ
「では、ご機嫌宜しゅう」などといって、大慌てで馬小屋から出ようとした。
「待ってよ、祝福の贈り物はどこよ!」
 ユリアの声が追って来る。
 さすがにしたたかである。
櫻王と聖ははっと顔を見合わせ、懐を探った。櫻王の懐には木乃伊をつくるための没薬、聖の懐には乳香があった。彼女はこれを焚いて眠るのがことのほか好きだったのだ。ヨハネスがいつのまにか側に擦り寄って、両手を広げた。
「ありがたいお告げ、珍しい贈り物ありがとうございます」
 ふたりはその手に渋々とそれを乗せる。皆の視線がぼくに集まった。ぼくはため息をつくと懐を探った。ここにくる前に食べたパンの切れ端があった。ぼくがそれを、ためらいながら、そっとヨハネスの手のひらにのせると、
 ずずうん、と振動がして、
 彼は顔を輝かした。一瞬で黄金に変わったのだ。
 櫻王と聖ははっと、ぼくを見て、次に赤子の方を見る。
 赤子はにこにこした。手もふっているように見えた。
 ぼくはその子と目があった時なにか電流が走る気がした。琥珀色で、金色にもみえる目だ。そして今にも言葉を話しそうな唇もぬれていた。
「こ、これにて一件落着」
 小躍りするヨハネスと得意顔のユリヤを横目で見ながら、まったくその場にそぐわない言葉を吐いてぼくらは退散した。馬小屋から出てすぐ
「あれを見た?」
 と聖が興奮した口調でいう。
「ああ、相当の力、赤子の段階で、あの能力......いままでの、小粒な奴とは桁違いだ」
 櫻王は腕を組んで思案する。聖も何か思うところがありそうだが
「そうね、あの没薬と、乳香でなんとか、種子の発芽を先延ばしできたらいいけど......彼は晩成型のようだし」と、自分に言い聞かせるように呟いた。「やはり由羅が、」
 と、ふたりとも憐れむような目でぼくを見る。
「はあ?」
 ぼくはパンが金に摩り替わったのは、聖か櫻王の術だと考えていたところだった。ぼくは自分の名を呼ばれ、二人の目を見るがいつものように意味不明だった。
「ああ、あまり変えられない、な」
 櫻王の言葉も意味はわからない。
「なるべくしてなる、ってこういうことなのね」
 そうなのだろう。ぼくはわからないほうのが、いいのかもしれない。
 ロバをつないだ木まで来たときぼくらは愕然とした。ロバが忽然と消えていた。盗賊の仕業か、抜け目ない村人にでも持って行かれたのだろうか。まわりに多くの足跡が乱れて残されている。
「困ったわね、どうしよう」
 ぼくらは頭をかかえた。これからの旅程は徒歩になるのか? 過酷な砂漠の移動、そして異邦人に対する、警戒感による白い目、腐りかかった食糧、そんなものを考えると、お先真っ暗になってしまう。
「まてよ、袋が落ちているぞ」
「ああ、あれはロバに積んでいたチラシよ、こんなものなんの役にもたたないから、置いていったのね」
 賊は金にならないものは躊躇せずおいていくのだ。ぼくはチラシを広げた。
 チラシには今日ユリアが救世主を生んだ事が、簡単な絵と文も書き添えて描かれている。厩でのヨハネスとユリアと赤ん坊。三人のまわりは耀く光が取り囲み、幸せ一杯の家族という、知らせだった。
 鬼に対抗するには、幸せ、とか喜びとかそういう気持ちをひろげることなのだ、と常々聖はぼくに説いていた。
 そうすれば、こころに付け入る隙がなくなるから、と。みんなが望みをもつことが大切なのだと、そういうことらしい。  
「これは上空から撒けばいいだろう」
 あの赤ん坊が生まれたことを知らせるために、チラシをまくのだ。
「そうね、最期の手段よ、錦斗雲を呼ぶわ」
 聖は、ロバを失った結果、術を使い虹色の雲を呼び寄せた。
 錦斗雲は、唐国でいろいろな事件に巻き込まれたときに、手に入れたもので、主に三人の移動の際に用いている。
 きまぐれな雲だが、今回は聖の必死の心話が通じたらしい。
 その事件のことをぼくは全く記憶にないのだが、とりあえず錦斗雲だけは馴染みの道具になっている。それは、少し知能があるような物というか生き物で、聖の合図で飛んでくると、もわもわとしたものを発生させ、ぼく達の体は取り囲まれていく。やがて、煙の様なものを噴出させながら上昇を始めた。
 発射するとき、爆竹を鳴らした。花火も唐国から持ってきたものだ。
 ぼく達は上空からのチラシ撒き済んだら、少し休憩を取り、その後はまた種子の成長の具合を見るため、また慌しく時間旅行に突入する予定になっているという。
「今度はそんな長くないから大丈夫だと思うの。それにこんどは時間をすすむ旅だし......由羅の負担はあまり無いと思うわ」
 聖が淡々と言った。ぼくは頷く。またあの恐怖の旅がはじまるのだ。ぼくは武者震いした。
 とにかく耐えるしかない。そうしなければ、見放されてしまうのだ。そう、ぼくはお荷物なのだから。
―だったら見放されたほうが楽だよ。
 あの鬼の言葉が頭にまたぽっかり浮かぶ。
 そんな中途半端な、迷いのあるぼくは、ついておいで、といわれれば、きっと誰とでもいっしょに行ったと思う。たとえ鬼にだって 。
 愛することは信じる事だ。
 ではどうしたら愛する人に信じてもらえるのだろう?
 それとも愛していると、口に出さなければ
 永遠に信じてもらえないのだろうか?
 
「ユラ、おいらと組んで困っている人を探しに行こうよ」
 ヒリポが顔のそばで、そう言ったときぼくはふいに現実に戻った。
「ああ、ヒリポ、ぼくはなんか長い夢を見ていたみたい」
 懐かしく、甘い中身の上に辛くて悲しい皮が幾層にも重なったお菓子のような夢。あれは何だったんだろう? 顔が湿っぽいし、口の周りが塩っぽい。
「ユラ、泣いていたの?」
「ああ、そうかもしれない......なんだか、真昼に見る月みたいな、おぼろげな感じだ」
「何だ、それ、由羅は時々変なこというよね」
「そう? そうかな」
 ぼくは袖で顔を拭った。袖はかなり汚れていたけどなんとなく懐かしいにおいを思い出す。だれのにおいだっただろう? 獣みたいな臭いだ。
「そういつも、起きがけにわけのわからない事をいうよ。この前の夜は寝言で『紫の糸ではやっぱり無理だ』とか言っていた」
「へえ、紫の糸ね、なにかね」
 ぼくは気分を振り切るつもりでうーんと伸びをする。
 午後、町の片隅には人影がない。寂しいくらいがらんとしていた。人はみんな暑さと砂ぼこりを避けるために、家の中に引きこもっているに違いない。そういえば、ぼく達以外の弟子の姿もない。
「え、ほかの弟子達はもうエス様の教えを広めにいったの? ひょっとしてぼく、寝過ごして出遅れた? ヒリポはぼくを待っていてくれたの?」
「ああ、違うよ、大丈夫だよ。おいら、初めはあのアンドーレてやつと回ろうかって思ったんだけど、あいつ、兄貴のパトロと一膳飯屋に行っちまったんだよ」
「あいつら,ご飯を食べる金があるのか」
 ぼくはガラガラ湖を出てから、エスに貰ったマナンを食べつないでいただけだったから、つい大声を出してしまった。あのときの魚の煮込みよりは、マナンのほうがずっとましだとは思ったけど。
「ああ、そうみたいだ。あの昨日ガラガラ湖でとれた魚の塩漬けをさっそく売ったみたいでね、魚はおいらたちが捕まえて苦労して樽に詰めて......いや、違う、あれはエス様の愛の証なのに、あいつらその金でうまいものでも食おう、ってマダイって言うデブを誘って行っちゃったんだよ」
「エスは、何もいわないの?」
 誘いもしないのか? エスの愛で得たものなのに?
「言わないさ。にこにこして『いっておいで弟子達よ』と言って......ほら、自分は行くつもりはないみたい、今はなんか、あっちのほうで目を瞑っている」
「具合でも悪いのかしら」
「いや、瞑想だって、言っていた」
 エスはたしかにいつものように目を閉じ、木の下で蓮華座を組んでいた。地面からほんの少し浮いている。
 その姿は食べる事には全く執着していない様子だ。エスの周りは空気が澄んで、その木の枝も葉も気持ちよさそうに揺れ、まるで小さな星くずでも舞っているようにあたりが煌いている。
 エスのまわりに砂漠の暑さはなく、ほっとできるオアシスみたいに、癒しの空間という雰囲気で、ぼくはガラガラ湖の一件いらいますますエスのその人の人柄というか、なにかエスの全てを尊敬したい気分なのだ。まさしく彼は救世主なのではないだろうか? そして、もしそうなら、その弟子になるということはどんなに名誉な事だろう? ぼくが何を出来るかわからないけど......
「素晴しいよな、エスは」
 ヒリポがくすんと鼻を鳴らして言った。
「ああ、ぼくもそう思う。ヒリポ、これからは、だれに憚る事なく『エス様』と呼ぼうよ」
「ああ、そうだな、やっぱり様をつけなくちゃ、な」
 ぼくたちは何か、深く根を張った大きな木という、よりどころを見つけた気分で、肩を組み、明るく、跳ねながら「困った人探し」に出かけることにした。
 その町は今までぼくが訪れた村々より、はるかに大きな町で、ぼくらは道の両脇に並ぶ家々を眺めながら、まるで巻貝の淵から頂点にのぼるように中心部へ歩いていった。ここはずいぶんとヤダヤ王のいる首都に近い町らしい。そう、こんな同じような町が集まった中央に王宮があるのだろう。
 今までぼくらが通過してきた、農村や漁村では建物は木でできたものが多かったが、この町は石作りの建物がほとんどだった。町はくっきりと二分されていた。裕福なものは町の中心部の丘の上に家をたてていた。それらは大体が二階建てで、堅固な塀が回りを取り囲み、しかし、どの窓からでも町の半分の貧しい家のほうを見下ろす事ができた。
 そうする事で、優越感を得ようとでもしているのだろう。裕福な家は数こそ少ないが敷地は大きく、住んでいる者も少ないように思えた。召使いや下働きの者を含むとたくさんの人がいるのだろうが、その家を所有しているのは、自分とは全く違う、種類の人のように思えるから不思議だ。住む所だけでこんなにも違った印象を持つものだろうか。
 そんな裕福な家の山の手から、見渡せるごみごみした下町には、たくさんの家がひしめき合い、その中で、人がごった煮状態ですんでいた。一応石を組んで建ててあるものの、寄せ集めの材料らしく隙間はあったし、不安定で、中は狭く、たくさんの人が肩を寄せ合ってそこで生活していた。
 腐った食べかすや汚物に蝿がぶんぶんとたかり、気ざわりな羽音はするものの、あとは異様な静けさである。日中は暑く、外を出歩くと消耗するため、家で過ごしているものがほとんどだからかもしれない。格子のない、ただのがらんとした窓や出入り口から、中の様子を伺う事が出来た。みんな飢えているのがありありとわかった。
 もちろん死んでしまうほどではないが、これ以上動くことは無理とわかるくらいの食物しかないのだろうか。家の暗がりでじっと寝そべっている。そんな半病人たちばかりしかいないのは、なぜだろうか?
 ぼくらが声をかけようとすると、目をそらしたり、慌てて家の奥に隠れる。みんな何を恐れているんだ?
「どうしてなの?」ぼくはヒリポに聞いた
「働いているものは、食べるに値するけど、家にいて何もしていないものは、食べるべからず、って王が決めたのだ」
 たしかに家にいるのは老人や、赤ん坊や年端もいかない子ども、あとは体力が落ちてやっとの思いで家事をしている女の人、病人や置物のように座っているだけの人たちだけのように思える。
「若い人や男たちはどこへいったの」
「みんな、王の指示で働いている。というか、働く為に食べさせてもらい、食べるために働いているみたいだ」
 ぼくの脳裏に蟻のように、王に従っている人たちの姿が浮かぶ。
「働くって、どんなことを?」
「まず王の城を作る、あとは兵隊になって王を守る、そして、武器を作るところで働く、あるいは、王宮内の雑多な仕事をする。例えば、王や臣下の食事を作ったり、掃除や洗濯、王宮内の整備、それから王の墓も作る。山の手に王に仕える官僚も少数住んでいるが、そこで働いているものもいる。山の手には武器商人もいるが、こっちも王に許可されて、多くの人を使っているかね。それに王の死後もヤダヤの国が安泰でいるように、永久を願い、王の種を頂いて子どもを作ったり、ああ、いっとくけど、この仕事はご婦人限定だけれどもね、そんな愛妾が住まう大奥があるって聞いたことある。王は好色らしいしね、女の人は家の奥に隠れていないと、連れていかれてしまう......とにかくそういったものらしいよ。町の住人は、王のために仕事をして、王のために生活しているんだ」
「それは、ずいぶんな話だ」
「......ああ、おいらだって、兵隊にされそうになったから、逃げて......そんなわけさ」
 ヒリポの放浪しているいきさつはそんなところにあったのか?
「ヒリポ、それは」
「いや、いまはエス様の弟子だからな、おいらは幸せだよ。でもな、ほかの、たくさんの人たちは、生き地獄だ。どうにもできないってとこが問題だ。何か苦情を言おうものなら、罪人にされちまう」
「...そう、これでは、どうしようもないよね。どうにかならないものかしら」
「そうだなぁ。エス様がなんとか出来ないものだろうか、その、あの魔法で」
 魔法ではない、とエスは言っていたけれども。エスに備わっている輝く手とエスの奇跡があれば、なんとか。
「そうだよな、あのエス様なら」
「そうエス様は救世主なのだから」
 ふたりがそんな事を話していると、
「しっ」と戒める声が聞えた。
「声が高い」
 それはあくまでもぼくらに警戒をよびかけているようでもある。ヒリポはきょろきょろと見回して声の主を探した。
「だれ?」
 その時、ぼくらが立っていた小路の家のひとつの間口から、白布のように、ほの白く招く手の平が見える。
「......」
 ぼくらは無言でうなずき会うと、暗い底なし穴のようなその入り口に近づいた。
「ごめんください」
「ぼく達に......ご用ですか?」
「いいから、早く入れ」
 うす汚い垂れ幕をまくって現れた男は、ぼくらをすばやく奪うようにぐいっと腕を引いて、中にこじ入れると、鋭い目を左右に動かし小路に誰もいないことを確かめる。家の中は暗く、ぼくは目が慣れるまで、その家の主の意図をその影から推測しよう試みるが、なにもできなかった。男のほうが先に声を出した。
「あんたたち、何者だ?」
 かれが、ぼくらの正体を知るべくじっと見つめているのがわかった。
「ぼくらは」
「救世主であるエス様の弟子です」と、さながら鳩のように胸を誇りで膨らませてヒリポが言った
「そうです、ぼくは、エスの......その」とぼくも負けじと胸をつきだし名のろうとすると
「こっちがユラでぼくはヒリポ」
 とまあ、万事ヒリポがぼくを補ってくれる。
「へえ、あんたたちが! あの噂の、これから救世主になって、人々を救ってくれるという、エス! でなくて、その弟子達?」
「そうです!」
 無精ひげの伸びた家の主は、人さし指を口に当てた。
「しっ、奥におふくろが寝ているんだ」
「す、すいません」
 ぼくは、珍しく反応した。
「お、お母さんっ、」
「?」
「具合悪いですか?」
「うん、まあ、というか、実はそうだ。病気だ」
 見つけた!この人は困っている。「困っている人探し」達成だ! エス様がなんとかしてくれるかもしれない。いやきっと何とかしてくださる。具体的に困っている人をみつけて、見事に解決して微笑むエスを想像すると、ぼくのエス様に対する信頼も尊敬も、制限無しにどんどん大きくなっていった。
「どんな病気ですか」
 この人を、そしてお母さんを助けてくれるかもしれない。きっと助けてくれるだろう。
 石をマナンに変えるエス、空中を歩くエス、魚を呼び寄せ自分から網にかかるように操れるエス、樽を葡萄酒で満たすことができるエス。頭の後光を調整できるエス。周りのすべての人に『愛』をお与えになるエス。ぼくの、そうぼくの尊敬するエスはきっとこの男の人のお母さんの病気を治してくれるはずだ。
「そ、それよりね、あんた達。さっきの話の続きだけど」
「?」
 暗さに目がなれてきて、よく見るとこの家の主は若い男で、自分はベカムという名だといった。みすぼらしい腰巻だけのベカムは痩せていて、過酷な肉体労働をしているように見えた。
「おれは城から逃げてきた。おふくろがとても、そう病気が悪くなっているという、知らせが来て、いてもたってもいられなかった」
 と、日焼けした顔に苦渋を滲ませる。
「ああ、それは」
「どうしてだろう。王は......君臨した時の話では、ヤダヤ国民が力を出し合って、協力しあえばちょうど良く潤い、そしてみんなが幸せになれると言ったけど、だから、みんなが一生懸命働いてヤダヤの国をより良くしようとしているのに、でも、やっぱり、貧しいものはずっと貧しいままだし、裕福なものはあっちの山の手で、豪邸に暮らしている」
「......」
「おれはずっと王の墓を作っていた。大きな石をコロの上に転がして、運んで、てこを使って重ねて......そりゃあきつい作業だ。みんな飢えと疲労と病で倒れていく、それが果てしなく続いていつまでたってもだれも幸せにならない......無限の苦しみ、そんな時に知らせが来て」
「お母さんのこと?」
「そう、重い病だと聞いた。それで暗闇に紛れ逃げて脱走してきて、ここで隠れて、なんとか、ただおふくろが助かる手だてはないものかと、そんな事を考えていたら、あんた達が話しているのが聞こえて......」
「困っている?」
「ああ、おふくろの病が治ればいいと、それを救世主になんとかしてもらいたい。そのエス様とやらに」
「ぼく、エス様を呼んできます」ぼくが脱兎のごとく出て行こうとすると、ベカムはぼくの腕をつかみ押し留めた。そして赤面するくらい顔を近づけ
「いや、だけど、そいつ、その救世主もどきは本当に、奇跡を起こせるのか?」まだ決心がつかず半信半疑な様子で問いかける。
「起こしますよ、ねえ、ヒリポ」
 ぼくは、ベカムが自分の苦しみを訴え出してから、沈黙を続けている相棒に同意を求めた。
「うん、いや、あの、その」
 珍しくヒリポの口が重い。
「はっきりいえよ、どうだよ」
 ベカムがせっぱつまって叫ぶ。ヒリポが自信なげに言う。
「いや、つまり、エス様は石をマナンに変えたり、湖の魚を呼び寄せたり、したけど、ああ、それから樽に葡萄酒を一杯にしたり......でも、病気を治すことはできるかしら?」
 そう確かに、とぼくもそのことは一抹の懸念はあった。
「......でもぼくはエスに望みをかける、エスは何だって出来るはずだ。なにしろ、救世主だから!」
 ぼくは家をとびだすと、エスが瞑想している木の下に向かった。この国はなんでこんなに歪んでいるのだろうか? 多くの人が不安と不満を持っている。それはその人によって大きかったり小さかったりそれぞれ違うけど。生まれてから死ぬまでに、幸せと恵みを感謝する時がどれほどあるのだろうか。そしていたるところに、私利私欲があって、いたるところに慢心があって、いたるところに虐げる気持ちがある。
 エスは必ず、あの男の母親の病を治す。
 ぼくはそう信じたかった。エスの力を、エスの愛にすがり付きたかった。
 いつものように空を漂うように静かに歩くエスの手を引いて、もどかしく思いながら、大急ぎで連れてあの家に戻ると、ヒリポが外に立っていた。エスの顔をみるとこう言った。
「エス様この家です。母親は貧しい故に、食事も満足にできず、薬も与えられずに苦しんでいるのです。どうぞ助けてください」
「うん、ヒリポよ、ご苦労だった」
 ぼくはヒリポの顔を見て不安になった。ヒリポが冷や汗をかいている。いつ何時でも柔軟に対応ができ、勘のいい彼が、これほどまで汗をかいているのを、今まで見たことがなかった。ぼくの予想は外れたのだろうか? 
 ベカムの母親の病を治すという事は冷静なヒリポには、無理だとわかっているのか。エスは医者ではないわけだし。母親の病はそんなに悪いのだろうか? ヒリポは母親を見たのか?
 ぼくが一足遅れで家に入ると、ベッカムは奥にある垂れ幕で区切られた場所の前で、医者とは全く異なる風貌のエスを値踏みするように見つめている。そして溜息をつくと
「おふくろを治すのが無理だったら、せめて薬をくれないか。いや小銭だっていいから」
 と痛みをこらえるように言葉を絞り出した。ベカム、そこで諦めるのはだめだ。エスを信じてみてよ。ぼくは心でさけぶ。
 すると、エスは
「迷える子山羊よ、信じるのだ」と言って、垂れ幕の後ろに行った。
 ベッカムは自分も続こうとしたが、
「入ってはいってはいけない」
 というエスの強い言葉と、瞬間に光った、押しとどめる手で、ぐっと踏みとどまる。ぼくとヒリポも固唾を呑んで、そちらの様子を見守った。やがて、たくさんのロウソクの灯りが集まったような、ぼんやりとして、しかし神秘的な耀きが垂れ幕の向うで、ぐるぐるとした回転と、広がったり、集まったりという動きを始めた。
 
第四章に続く