第二章  愛の奇跡

 この喜び!ぼくはエスに飛びつきたい気持ちを必死でおさえた。エスの力は素晴しい。
 エスの力! 
 エスの愛!
「たっぷりあって重いぞ、よし、ふたりとも手伝え。そうっと、ゆっくり引かないと、船がひっくり返ってしまう。そうそう、そうだ」
 エスは耀いた顔で言った。あの手柄をたてた子どもみたいな目だ。ぼく達二人は反対側の舟のへりに腰掛け、網を手繰り始める。確かに重かった。体重をかけてひっぱるしかない。しかし、魚が網からのがれようとする、湖の中に落ち込むような反発力はなかった。ぼくは顔を真っ赤にさせ汗まみれで必死で手繰る。
 やがて魚が見えてきた。光を受けた腹は銀色に、背中は青みがかり輝いている。三人が網を引っ張るにつれて、網から躍り出た魚で舟の中は一杯になった。
 まだまだ半分以上も網が湖に浸かっていたが、舟に載せるのは限度があり、しかたなく網の底を湖に沈めたままぼくらは舟をこいだ。
 これでは櫂を使って水をかくのもさぞ重いと思ったが、どうしてだろう。誰かが舟を押している。いや、網にかかった魚が岸に向けて泳いでいる。捕まった魚が舟を進めてくれるなんて、そんなことありえるのだろうか? ぼくは思わずエスの顔を見る。
 と、かれはふふんと目で笑った。
 唄を歌いたいくらいの気分で岸に着くと、
「信じられない!」
「ああ、こんな大漁ははじめてだ。おお、アンドーレ、これで、きょうは飯にありつける」
 兄弟は抱き合って大喜びした。エスはおごそかに言った。
「よし、これはおまえ達に与えよう、しかし条件がある」
「なんです?」弟が聞いた。
「わたしの弟子になりなさい」
 エスはこれを望んでいたのかと、ぼくは理解した。 
「これからも、奇跡をおこしてくれるのでしょうか」
 狡猾な顔で兄が聞いた。両手でもみ手をしていた。
「あたりまえだ。これは愛なのだ。わたしの愛は無限にある」
「では、弟子になります」
 声が和音になっていた。しかし、彼らの関心はエスには全くなかっただろう。弟子になると言った言葉に嘘はないだろうが、むしろ、その見返りが欲しいだけのようにぼくは思う。 
 事実、パトロとアンドーレは答えるより早く、魚を樽に入れる作業に没頭する。湖に浸かったままの網も、慣れた腕前で、せえの、せえの、と岸に寄せ上げた。かれらにとってはエスより今日の収穫が大事なのだろう。獲れた魚は樽に塩漬けにして保存するらしい。
 ヒリポは兄弟に請われるより早く、そばに駆け寄り手伝いをした。ヒリポはほんとうにいいやつだと、ぼくは感心した。
 あたり一面が魚の生臭い臭いで一杯になる。ぼくはエスを振り返ると心からこう言った。
「エス様ありがとうございます」
 エスは衣服を首から被り、腰紐を結んで満足そうに頷きながら言った。
「今晩はここで、魚料理の馳走になろう」
 そうして、夕方になると、兄弟はたる詰めをおしまいにして、大鍋に湯を沸かし、魚をぶつ切りにして煮込み汁をつくりだした。
 エスは、じっと蓮華座で瞑想していた。
 弟子になっても、機嫌を伺ったりする必要が無いと、悟ったのか、漁師の二人は無言で作業をしていた。あるいは二人だけで通じるひそひそ話をしている。ヒリポは初めての漁と、樽に漬ける作業で疲れたらしい。軒下で壁に寄りかかり転寝をしている。ぼくもかれの横で目をつぶって今日の出来事を反すうしていた
 魚が獲れなくなった湖だった、粘りのある水であった。けれど、エスが網を投げた途端、魚が待ってました、とばかりに自ら網にかかり、さらに舟を先導していったのだ。
 あの時、なにかが奇妙にみえた。そう、石をマナンに変えたときと同じだった。エスの手が光っていた。不思議な感じだった。 
 あれが愛なのだろうか。 
 力、というやつか。
 それが、エスが救世主である証なのだろうか。
 エスは昨日もマナンを恵むとき、人々に
「愛するのです」
 と言っていた。食べ物を融通することが、皆の助けになるという事なのだろうか。救世主というのは、皆に食べ物を恵んでくれる人を指すのか。
 ではエスの弟子になるという意味はなんだろう。なぜ彼は奇跡を起こし、そして次々と弟子を増やそうとするのだろう。ぼくらの役割はなんだろう。
 パトロとアンドーレは、なべにたっぷりと香辛料を入れる。そうしないと、生臭さがとれないのだ。辺りは魚の煮込み汁の芳香で一杯になった。
 まるで偽りの上塗りだとぼくはぼんやりと考える。粘っこい湖も、臭い魚も、漁師も、みんなお芝居の演出で、真実のものは存在しないように感じる。
 エスの力は真実なのだろうか?
 夜の帳が降り、やがて、黒い人影がひとつふたつと、人目を避けたようすでこの家の回りに近づいてくる。くぐもったような声が途切れ途切れに聞える。
「あれは?」
 ぼくが誰ともなしに尋ねると、アンドーレが背伸びをして
「漁師仲間だ、急に戻ったのかな? みんな町に出稼ぎにいっていたのに」と、言う。
「ほんとうだ、オスカがいる、それに、マダイも! おおい、みんな、こっちだ」
「パトロ、」
「アンドーレ、魚がかかったのか?」
「パトロ、よかったな」
「ああ、オスカ、それにラウーム、帰ったのか」
「そうだ、町は......駄目だった」
「そう、町はおしまいだ」
「王のせいで」
「王?」
「あの......王だ。狡知にたけ、人を蟻のようにあつかう王」
「こっちで飢えているほうが、よほど......」
「教えてくれ、なにがあったんだ?」
「いや、それより......なんか食わしてくれ」
「うまそうな臭いだ」
「魚だな? 魚がとれたのか」
「アンドーレ、詳しく話してくれ、どうやって魚を捕ったんだ」
 魚の汁を作っているかまどの周りに数名の男が集まってきた。あちこちで会話が進み、よく話が聞き取れない。自分たちの、方言だけで盛り上がっているのだ。ぼくはこれでは、エスの権威を示す事が出来ないと焦り、声高に
「みんな、きいてくれ」
 と言った。ぼくは酒樽の上に乗って、演説のように話す。相手はがさつで、人の話をききそうもない連中だった。ありったけの声を張り上げた。
「この魚は、救世主であるエス様の奇跡の賜物だ。ここに、集う者たちはエス様のみ言葉をきくがいい」
 エスはすっと立ち上がった。さっきまでは日光の下にいたためか、わからなかったが、こうして日が翳ると、後頭部にうっすらと後光がさしていて、とても厳かに見えた。そうして右手を上げると、
「信じるものは幸いである。この魚は惠だ。わたしから皆への愛だ。どうか、受け取ってくれたまえ」
 聴衆は一応、こちらを注目する。
「エス様が網を投げると、魚が山ほどかかった」身振り手振りを交えパトロが言った。
 そこは一応認めているらしい。
「魚は自分から網に飛び込んできて、そして、網にかかったままこの岸辺まで、舟を引っ張って来たんだ」
 アンドーレが唾をとばし興奮して言った。
 漁村のもとの住人たちは信じられない様子だった。ほら話と思っている。
「そんな事はお伽話の世界だ」
「そうだ、そうだ、アリババの話にでてくるだろう」
「いや、アリババでなくて山姥でないのか」
「ババにはかわりない」
「では魚が鯖なのは道理だ」
「いや鯖は湖ではとれないだろう」
 などど、笑っている。ぼくは悔しかった。エスの手は耀く手だ。どんな方法かは知らないけど、石をマナンに変えたり、大漁を招いたり......素晴しい手なのだ。エスの愛。あたたかい炎を連想させるエスの金色の瞳。
「黙れ、エス様は救世主なのだ、皆を幸せに導く主なのだ」
 エスはぼくが必死の形相で皆に訴えているのに、余裕の表情で見ていた。
「じゃあ、おれ達のまえで、もういっぺん、その奇跡とやらを、見せてくださいよ」
 アンドーレの腕にぶら下がっている、オスカというなよなよした若い男が言った。
「そうだ、そうだ」
「見せろ、見せろ」
「もう一度奇跡をおこしてみろ」
 そうしているうちに、次々と椀に魚の汁がよそわれ、器が手から手へ回される。さらに「熱っ」などどいいつつ口に運ぼうとする者もいる。
 こいつらは、奇跡は信じないくせに、エスが獲った魚はちゃっかり食べる気なのだ。ぼくは慌てた。
「まず一番にエス様に召し上がっていただくのだ!」
 と怒鳴った。樽を踏み鳴らした。空の樽はどんどんと乾いた音がした。
「ユラ、ありがとう、そして弟子である、パトロよ、アンドーレよ、ひとつたずねよう、お前たち喉は渇いていないのか」
 エスはまったく動じていなかった。
「もちろん、エス様、喉は干上がってカラカラです。でも、この村にある井戸は濁り水しか出ませんさ」
 パトロが『様』というところをわざとこれ見よがしに強調して大袈裟な身振りを交えて言った。
「お前達が望むなら、わたしは葡萄酒を出そう」
「本当ですか」
 マダイという太った男は目を耀かせる。
「莫迦、本当のはずないだろう」
「だって、さっきだって魚が」
「あれは、偶然だよ、今日こっそりと養殖場から荷車で搬入したんだよ」
 などど、だれも取り合わない。
 エスはにやりと笑った。きっといつもそうなのだろう。ヤダヤの民はだれもエスの力を信じないのだ。だれもエスの愛を信じないのだ。そのくせ食べ物は遠慮なく食べる。さもそれが当然のように。エスはぼくの顔を見ていった。
「ユラ、おまえは何の上にいる?」
「何って、これは樽です。もとは葡萄酒が入っていたみたいです。ぶどうの絵が描いてある」
「では、そこから降りて、栓をひねってご覧、」
 エスの言われるまま、ぼくは勢いよく樽から飛び降りた。
 栓をひねれば絶対に葡萄酒が出ると、ぼくは直感でわかった。だから、皆の顔を勝ち誇ったように見回し、そばにあった茶碗を取り、注ぎ口にあてがってから、もったいぶった動作で栓をあけた。ぼくの手元を見ていた男達から
「おおぉぉぉ」
 という、感嘆の声が聞えた。
 栓からは良い芳香の赤紫色をした葡萄酒が、勢い良く流れ出たのだった。ぼくは茶碗を持ったまま、尻餅をついてしまう。実は少し芝居気も入っていたかもしれないけど。
「みんな、今日はお祝いだ。いくらでも飲んでくれ。この樽は空になることはない」
 エスは群集を前に言った。そして耀く手で兄弟を指差し
「パトロとアンドーレが弟子になったこと、そして、おとといユラとヒリポが弟子になったこと、共にわたしにとっては光である」
 ぼくは心から嬉しかった。ユラ、と名を言った時にちらっと見てくれた。エスに認めてもらったという気持ちが、ぼくをますますエスに傾倒させる事になった。
 ぼくはただの人間の由羅じゃない! ぼくは救世主エスの弟子になったのだ!
 それからは、漁村の男達はお祭り騒ぎになった。何しろ葡萄酒だ。
 酒があれば怖いものない。
 みんながとたんに陽気になって、エスの肩を叩いたり、腕を組んだり、そのうえ、なれなれしく、「エス」とよびつけしたり、もっと何か、食べ物を出せ、とか、あぶった烏賊はないのか、とか、とにかく、騒がしくて、あつかましくて、踊ったり、ぼくはほとほと、呆れて、一人で離れた所に行って座っていた。
 賑やかなのは好きでないし、ぼくはどうあがいてもあの中に入っていけなかった。それはぼくがヤダヤ人でないせいかもしれない。それとも、ただ、やきもちを焼いているのかもしれない。
 誰に? エスか? ぼくだけのエス様でいてほしいのか?
 すみの暗がりで懐に入っているマナンを取り出してかじった。きのうと同じ味だった。懐かしい。この味からなにか思いだそうとした。
 マナンをかじっていると、小太りの男が来た。酒のはいったびんをもっている。
「チェリオ」
 チェリオはヤダヤの挨拶で、こんにちはとさようならと、そして元気? みたいな意味もある。フィリポに教わったら知っていた。
「チェリオ」
 ぼくもお義理で返した。
「あたしはユーフラテスのマダイ。あんたはエスの弟子だそうだけど、なんて名?」
「ぼくはただの/由羅、東方から来た」
 マダイは腹を震わせびくっとした。
「東方? 東方っていえば、おまえ、あの、エスが生まれた時にそれを予言したという『三人』のなかの一人なの?」
 三人?
「ぼくが、ですか、いやまさか、だってどう見たってエス様のほうが年上ですよ」
 エスの誕生の時にぼくがいるわけがない。それなのにぼくの中のなにかが警戒の音を出している。
 なぜか、慎重に答えていた。
「ああ、つまりね、ヤダヤに将来の救世主が生まれたっていう噂は三十年くらい前からあってね。まことしやかっていうか、その赤子は自分が産んだ、と自ら名乗りでたのが、ユリアっていうのもみんなの知るところなのだけれども、まあ、彼女は自慢していいふらしたのよね。わたしが産んだエスは後々救世主になるのよ、てね。ユリアは今や、かなり有名な女だから、名前ぐらい知っているでしょう?」
 ぼくは話しの合間にうなずいた。
「そのユリアが隊商組んで、街角やつぶれた店やの跡で、話している内容、それによると、その子どもが誕生した時に、東方から、三人の博士が来て託宣をして、贈り物を置いていったそうよ」
 博士っていうのは......
「三人のうち、一人は漆黒の髪をしたどこの国のうまれか判別できない男、そしてもう一人はどんぐり眼の小柄な少年。そして、もう一人は灰色の瞳をした美しい女、と聞いているわ」
 灰色の瞳?
「その時にこの赤子はヤダヤの王になり、後に救世主になる、ってその三人が言ったわけなのよ」
「そして、その後、三十年ぐらいたってから、エスの姿があちこちの場所で見られるようになる。石をマナンに変える超人としてね、エスの奇跡は人から人へ伝えられ......ああ、その、つまり、あたしが聞きたいのは、あんたその少年に心あたりはないかしらってことなのよ」
 東洋の血をひいていることは、黄色い肌の色、のっぺりした顔で一目瞭然だったし、たしかにぼくはどんぐり眼の小柄な少年の人相に当てはまってはいた。しかし、その指摘でぼくは狼狽した。実際のところ、記憶がないのだ。
 ヒリポはこう言う。
『ユラはふらふらと歩いてきた。子どものように泣きじゃくった顔だった。ユラはおいらと目があうと、ほっとした様子でおいらの手をまさぐった。変な奴だと思った。こいつ、なんだ? 同じくらいの年だから、親近感があったのかな?』
 そう、ヒリポと会うまでの記憶がないのだ。名は知っている。年はわからない。男だ。
 しかし、その先はわからない。ヒリポはぼくに聞いたそうだ。
『親、兄弟はいないの?』
 ここでは、そういう血縁を大切にするのだ。パトロやアンドーレみたいに。
 ぼくはこう答えたそうだ。『二親は死んだ。一人っ子だ。でも、親よりも兄弟よりも愛する人がいる』と。
 今も時々考える。ぼくはその時、誰を指して愛する人と言ったのだろう?
 櫻王だろうか? 思い出せないことと比例して胸が痛くなる、櫻王という名の存在だ。
 ぼくがぼんやりしていたので、マダイと言う男は、このぼんやり具合は、完全に三博士なんかじゃない、と断定したらしい。ほんとうはマダイの質問でもかなりおちこんでいた。博士とは賢者だから、どう考えてもかけ離れた存在だ。
「あたしはね、読み本とかにちょっとした記事も載せた事もあるのよ、ユーフラテスのマダイって言えば、ちょっとは名が知れているわ。エスがほんとうの救世主だって噂はずっとあって、あたしもひそかにエスの事を調べていたし、いろいろ過去の事も調べていたのだけれども......そのエスの奇跡を、奇跡の成果だけど、この目で見られて今日は最高だわ」
 マダイという男は陰間のように女言葉を使った。とりあえず自分の氏素性を明らかにしようとしたらしい。
「そう、これからエスについて本を書くこと、それが今のあたしの最大の目標なのよ」
 本、そうか、それでこんなにエスについて詳しいんだな、 
 ところで先ほどマダイがいった読み本というものは、以前は人々の間にまるで、食事のように当たり前に存在したらしいが、今は化石のように珍品になってしまったらしい。
 そもそも、ここでは、人は本どころか文字すら忘れてしまっているようにみえる。いや、忘れてしまいたいだけなのかもしれない。はるか昔の栄華の名残のように君臨していた、文字という伝達手段は今やもはや、限られた一握りの者が、考古学的に扱う骨董のようになってしまった。
 彼の言う『本』というものは、とてつもなくはるか先にある、手につかめない蜃気楼のようにぼくは感じた。しかしその夢に触発されたように
「そう、たしかに、エスは、そう、書くに値すると思う」
 ぼくは心からそう思った。エスの行動すべてが愛に囲まれていたから。それは雨上がりの葉に残る水滴のような愛だ。小さな雨粒がきらきら光る水玉になる。小さい水玉が大きな雫に......
「そう思うでしょ?」
 マダイは懐から干し無花果の実を出すと、ぼくにも差し出した。
「あの煮込み汁、不味くはないけど、ね、後味がどうもいけないわ」
 ぼくは頷いて、無花果を口にいれた。
 ガラガラ湖でとれる魚は不味い。それは粘っこい湖のせいなのか、それともこの魚がなにかを象徴しているからなのか、ぼくは見当もつかない。
 それに対して無花果は懐かしい味が記憶の端っこを刺激する。口のなかに残る粒粒の独特の食感を味わいながら、さきほどの続きを考える。
 どうして、ぼくは、記憶をなくしたんだろう? それなのに思い出すという、この作業のこの懐かしさはなんだろう? 記憶をなくしながら、そこは母の胎内という起源へ遡るようなこのほのぼのとした感じがする。
「では、今宵はあたしに付き合ってくれる? 情報を整理するのは絶好の機会だわ」
「いいですとも、役にたてるかどうかわかりませんが」
 ぼくはむしろ、マダイの口から、さらにエスの事をもっと知りたかった。ある人のことをもっともっと知りたいと思う気持ち、これはおぼえがある。その人とずっと一緒にいたいと思う気持ち。
 人はこれを恋と呼ぶ。ぼくはエスに恋したのだろうか。
「エスは、大工のヨハネスとユリアの間に生まれた子、そうだわね」
「はい」
「エスはなぜ馬小屋で生まれたと思う?」
「さあ」
「あるとき、ヤダヤのフセイン国王が国中におふれを出した。救世主と偽って鬼が生まれる。これより後にうまれた男児は、すべてその首を刎ねよ、と」
「すべて? すべての男の赤ん坊をなんて、そんな、残酷な!」
「うんそう。でも王は恐れたわ。実際に鬼の種子がユリアの腹に宿ったのを見た、という女もいたし。エミリと言う女だけど......そこで、王は次々と赤子を見つけては男の子とわかると、殺戮を繰り返したので国中が混乱に陥ったの。だれもが子どもを作るのを躊躇した。すでに身ごもっていたユリアは、産まれてくるのが男と知っていたので、こっそり馬小屋で出産した。馬小屋には馬が一頭いたけど、揺りかごの代わりに飼い葉おけを横取りされて、ご機嫌斜めだったそうよ。そうして、お産が終わり、ほっとしていた時にロバに乗った、三人が現れ......その風体はさっき言ったとおりだけど、この子はヤダヤの王になるだろうとお告げをした。そして、帰るときは耀く虹色の雲に乗って、すごい速さで去っていった」
 輝く虹色の雲、それは、錦斗雲だ。
 ぼくは頭の中にその雲の名を反芻する。でもなぜ、ぼくは知っているのだろう?
 なぜ、この三博士のことを聞くと鼓動が早鐘を打つのだろう。
「その後、そんな託宣を受けた割に、エスは平凡な幼年時代をすごすの。不器用なりになんとか父親のもとで大工の仕事も覚え、しかし生来の飽きっぽい性格が災いして、ジプシのように風来坊になり、何でも屋と自称して生活の糧を得ていた」
 マダイは話を続けた。
「そんなある日、大天使がエスの元に舞い降り、洗礼を授けるの」
 「その時空は瑠璃色に耀き、太陽はその陽射しを弱めたという。エスの姿は神々しく光り耀き、木々は葉を震わし、そして川は、静かに水面を一枚の鏡に鎮めたという。鳩が祝福をしながら空に弧を描き、軌跡は虹がなぞっていった。
 長いまっすぐな銀髪を腰まで垂らし、灰色の瞳をした女人のようなたいそう美しい大天使はエスにこう言った。
―これからはあなたの力を、人への愛のために使うのです
―おれに力なんてない。どんな力だ
―これから、あなたは自分の思ったとおりに、何でもできますよ
―本当か?
―そう、あなたが心で願えばなんでも必ず実現する
―そうか、おれはやっぱり救世主なんだ。おふくろがいうには生まれたときに、そういう事をなんか偉い人にいわれたみたいだけど、そうだったのか。そいつは幸運だったな。
―でも気をつけてください
―?
―その力は愛のために使わなければいけません。自分の欲や憎しみのために使えば、あなたは悪魔になります
―悪魔、それもかっこいいじゃん
―エス、あなたは運命にさからわない方がいいのです
―ああ、わかったよ
 そしてエスはヨルダ川の水をかけてもらい、洗礼を受けた。天使は言った。
―あなたの名をこれから無限の数の人々が唱え敬うでしょう。それは未来まで続きます。素晴しい事です。あなたは選ばれたのです。
―神様に選ばれたのだろう?
―いいえ、鬼に、です
 大天使の足元に、もあもあと光る粒子が湧いてきたかと思うと、虹色の耀く雲になり、かれが乗った、というより足もとから、うつろにぼやけさせながら体全体を覆い、その後浮き上がってから、ものすごい速さでかなたへ姿を消した。
 エスはその後何でも屋を廃業し、不思議な力を人への愛の為に惜しむ事なく使い、国中に『愛こそすべて』という教えを広めて歩いているという。エスはほうぼうを歩くうちに、自然に落ち着きと威厳がそなわり、ますます修行者のような風貌になっていった。」
 マダイの話を聞いて、ぼくは思わずため息をついてしまった。ユリアが受胎告知を受けたところはエスから聞いていた。それ以外のエスの生まれた時の事、天使に洗礼を受けるところはまるで物語の一こまをみている様であった。そして晴れわたる空のもとヨルダ川のほとりで聖水を受けるエス。その情景と、その時の会話が、まざまざと蘇る。マダイはユリアの講演会でその逸話を聞いたらしい。
 ぼくはその時、ああ、その大天使は聖だと思い当たった。
 聖という人間が何を指すのかやはりまだわからなかったけど......ただ、ひじりだと、そういう名が頭に浮かんだのだ
 マダイは話をしたことにより異様な、興奮状態になっていた。
「ユラ、あたし決心したわ。あたいもエスの弟子になる。それがエスについての本を書く近道だと思う」
「それはいいね」
「ユラにもお願い。エスとこれからも一緒に行動することで、調査に協力してほしいの」
「いいけど、エスはぼくをどう扱うかしら」
 マダイの助けになることはできないような気がした。
 自分のことさえよくわからないぼくに何が出来る? だれにも必要とされていないぼくが? エスだって弟子は有能のほうがいい。エスはぼくをどの程度の人間と思っているのだろう?
「だってそうすれば、あんたのエス様だって、きっとあんたを認めてくれると思うの」
 ぼくはマダイの言葉を完全に理解している訳ではなかったけど、マダイがいればエスにとっても情報をひろめるという点で、かなり良いのではと思い、頷いた。  
 このころから、ぼくはエスに全面的に傾きつつあった。エスの通ってきた道が正しいという事は、明らかなような気がしたから。ぼくはその場でこれからのことを妄想し、ひとりで赤面していた。
 しっかりしているマダイは、ぼくの思惑などおかまいなしに早速エスに近寄り、太った腹を器用にひっこめ、体を折り曲げ、挨拶をすると、懸命に自分を売り込んでいる。
 弟子が増える事にエスは歓迎をしている様子だった。特にマダイは弟子のなかで唯一文字が書けたので、エスは、マダイを重宝するようになるように思えた。自分の残した業績を書いて残すために、自分の呟いた言葉を多くの人に知らしめるために、文字は大きな力があるはずだった。
 次の日からエスを取り巻く一行は大人数で移動する。エスを中心にヒリポ、パトロ、アンドーレ、アンドーレの腰ぎんちゃくのオスカだ。オスカは、弟子になる気はないが、アンドーレと離れたくない、というのでついてきたのだ。エスはまったく頓着しなかった。そして、いまや重鎮となった文字の書けるマダイ。最後に、ぼく。エスは出発する時に皆に言った。
「弟子達よ、愛をひろめるのだ」
 しかし頷いて聞いていたのはヒリポとアンドーレくらいだった。マダイはこれからのエスの行動をくまなく書きとめようとしていて、石盤やら羊皮紙やら準備していたし、頭の中でぶつぶつと内容を整理をしているのか、心ここにあらず、といった感じだった。パトロは欠伸をして全く感心のない様子だったが、仕事場であるガラガラ湖を離れるのが少し心残りのようであった。しきりに湖のほうを振り返っている。
「これから何をすればばいいのですか」
 ヒリポが尋ねた。
「困っている者には手を差し伸べるのだ」
 エスの頭を縁取るように淡い後光が輝いていた。今日のエスはいつもにまして、穏やかな表情だった。
「しかし、おれたちには力がありません」
 アンドーレは自分の股に手をさしこみ喧嘩にまけた犬のように気弱に訴える。オスカが嬉そうにその背中にもたれている。
「あなた達は祈るのだ。そして迷える子山羊の心を休ませることが大切だ。そこにわたしが行くであろう」
 そうして、皆歩きながら困っているものはないか、探して歩いた。どぶの中や、狭く、ゴミだらけで蝿が渦をまいている、小路の先に泣き声はないか、苦しんでいる顔はないか探していく。
 それは、エスと弟子たちの光に満ちた愛の道であった。


第三章 東方の三博士  に続く